東京新聞栃木版コラム「四季つれづれ」掲載文V
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☆ 長い間お読みいただきありがとうございました。☆
東京新聞のコラム「四季つれづれ」は8月1日の私の文章を最後に、幕を閉じることになりました。およそ6年半もの間、良い経験をさせていただいたと思っております。繊細な日本の四季が、いつまでも変らずに続くことを願っております。 |
自然との記憶 心豊かに 日本には四季があり、季節の流れの中で生まれた、俳句の季語のような独自の文化もある。人の営みの背景には、そんな四季が無意識に作用する。肌寒い早春の出来事や、桜咲く華やかな季節に人生の節目のスタートを切ったことなど、繊細な印象が記憶の断片に定着している。 多くの花や昆虫、野鳥などが季節とともに移ろい、人生の出会いや別れもそんな中で繰り返される。気がつけば大切な人の姿を見つけることはできず、野山を飾ったヤマユリやキキョウ、リンドウなどの姿も消えてしまった。この五十年で失った自然は計り知れない。生活面での豊かさの追求は際限もなく、自然や人との直接な会話はインターネットや携帯に取って代わられ心が乾いてゆく。 そんな中、解放された中高年はフジ、桜、ミズバショウ、レンゲツツジ、ニッコウキスゲなど、季節からの贈り物を求め、心に潤いを取り戻そうと一方向に大挙して移動する。しかし、足元の里山は荒れ放題。開発により生物の生息域は寸断され種の移動は困難となり、人知れず絶滅への道を歩んでいる。人間はどこまで自然を壊し、目先の豊かさを追い求めるのだろう? とはいえ、きれいごとばかり言っていても生きてゆくためにはやむを得ない。「草木や鳥、昆虫などと人間、どちらが大切なのだ!」と問われると返す言葉もない。解決策も見いだせずこの六年半「四季つれづれ」を書き続けてきたが、連載もこの文章で終了となる。 美しいといわれる日本の四季。人間も生物であり、長い間、自然とともに歩いてきた記憶や文化を忘れずに、物の豊かさだけに流されず心豊かに生き続けていきたい。 2010年 8月1日掲載 雄大な積雲 ”昔の山男”の失態 久しぶりに山小屋泊まりの尾瀬散策に出掛けた。妻と新しい山仲間の合計五人で。 妻とは二十代のころ、北アルプスで出会ったのが縁で結婚した。子どもが小さいときは妻の両親や妹夫婦、私の母なども誘い、北アルプスや八ケ岳、八方尾根と、私の好きな自然の中に毎年繰り出した。針ノ木大雪渓からの後立山縦走、穂高涸沢などを、まだ五、六歳だった次女をザイルで確保しながら歩いたこともあった。 そんなベテラン?の山男が尾瀬でとんだことをやらかした。尾瀬ケ原なんて軽いもの!と甘く見たわけではないが、闘病生活も長く、山から遠ざかって久しい。昔の装備と今のそれはだいぶ変わっている。ニッカボッカにニッカホース、皮製の登山靴、そんな一時代前のものならたくさんそろっていたが、何年か前に購入した軽登山靴で出掛けた。これが間違いの元だった。 木道を歩いているうちに異常に気付いた。靴から足がはみ出してきた。底の部分と本体の間が劣化して、ひび割れて崩壊寸前。左足も同じよう。スコールのような大雨に霰(あられ)まで降りだし、そのうえ雷鳴も轟(とどろ)く中、やっとのことで小屋にたどり着いた。 小屋の壁に一枚のポスターが張ってあった。靴の劣化に関する注意だった。なるほど、こんなこと昔はなかったが、昨今ではけっこうあるのだと苦笑い。小屋の方に相談すると、長靴があるというので二千円払って購入した。 緑色の長靴を履いて、さっそうと木道を歩く昔の山男!自分自身笑ってしまう。高校山岳部の関東大会で優秀校に選ばれた時の部長であった私なのに、とんだ失態であった。 2010年 7月4日掲載 尾瀬に咲くミズバショウ 夏鳥の歌声追い掛け つい最近まであちこちで見かけたジョウビタキやツグミの姿が消え、田植えが始まった里山に夏鳥の声がこだまするようになった。五月十一日のホトトギスの初鳴きを皮切りに、翌日はツツドリ、十四日にはサンコウチョウとなじみの夏鳥が出そろった。芽吹きとともにチョウやガなどの卵がふ化して育った毛虫や芋虫が、夏鳥の子育てに欠かせない餌となる。 いつも出掛ける佐野市の飛駒地区。ジュウイチが「ジュウイチ、ジュウイチ」と大声を張り上げて鳴く声を聞いた。あまりにも近くなので撮影しようと試みるが、葉陰に隠れ、いくら探しても姿が見つからない。民家のおばあさんが興味深い顔をして出てきたので、あいさつをし、話し込みながら探し続ける。 一時間以上探したころ、竹やぶの中にその姿を発見!ところが、レンズを向けたとたんに逃げられた。ジュウイチはほれぼれするような滑空をして、かなり離れたところまで一気に飛び去った。そしてまた、そこで大声で鳴き始めた。 移動して目を凝らして探し当て、写そうとすると再び滑空。この繰り返しを二度もさせられた。でも、とうとうそのときがやって来た。まずまずの枝に止まり、良いモデルになってくれた。 ジュウイチやホトトギス、カッコウ、ツツドリの親鳥は子育てを放棄する。他の鳥の巣にこっそり卵を産み落とし(託卵という)、いち早くかえったひなは、本来の巣の鳥の子たちを巣から落としてしまう。残酷そうであっても、これもDNAのなせる業。親鳥に罪はない。 皆さんも野鳥の歌声を聞きに、野山に出掛けてみてはいかが! こずえの新芽が日に日に色合いを変える四月のある日、羽化したばかりのアゲハチョウやキアゲハなどを撮影しようと、行道山ハイキングコースの尾根に出掛けた。道脇には、ヤマツツジやトウゴクミツバツツジが咲き始めている。その花に蜜を吸いに訪れる姿を撮りたくて、毎年この時期、何時間も同じ場所で粘る。 昨年、ここで一人の女性と出会った。山で会う方々とは基本的な考え方が似ているのか、気楽に話し掛けられる。聞けば私と同じくがんの手術をしたという。わずかばかりの会話だったが、同じ闘病仲間という親近感?からその年の夏、私個人で行ったコンサートにご招待した。 あれから丸一年がたち、何もかも同じ季節がやってきた。「当初は落ち込んで山歩きどころではなかったが、友人の言葉や励ましのおかげで山歩きができるようになった」と目を輝かせながら語った姿が忘れられない。 早春のチョウを撮影しようと山間部に出掛けた。最初のポイントは空振り。昨年見つけた山際の日だまりに移動して出現を待つと、タネツケバナにスジグロシロチョウが蜜(みつ)を吸いに訪れた。 その場面を狙っていたら、前方から歩いてくる人がいた。撮影に集中していたのですれ違う際にはあいさつせず、撮り終えてから話し掛けた。するといきなり、「ここは民地だよ!勝手に入ってきてあいさつもせず常識がない。あんたみたいな人が一番怖いのだよ!火事でも起こされたらたまったもんじゃあない」。そんな非難の言葉の連続も、ごもっともな内容だったので返す言葉もなかった。 少しは機嫌を取り戻してほしいと思い、「最近あまり見かけない貴重な山野草が残っているところですね!」とか、「昨年、山道の入り口付近で所有者と思える方と長話した」などと言ってみたが、火に油を注ぐようなものだった。 つい最近、隣町の道端でいつも出会うおじさんに運転席から話し掛けたら、「お茶でも飲んでいけ!」と言われ、いろいろごちそうになり、お土産にサトイモやシイタケをいただいた。 よそ者に対して年配の方は寛大なようだが、私とあまり歳が変わらない方にとって、普段見かけない人間は不審者に見えるのだろう。デジカメの普及で撮影者が多くなった。山菜やキノコなども、所有者に断りもせず持ち帰る。国有林以外はほとんど民地なのだ。 そんなことがあってから、撮影で里山を回るにも、今までと何かが変わってしまい気分が重い。人が住んでいそうな場所では必ずあいさつ、お断りしてから撮影する。自然と親しむ方々はご注意を! 「四季つれづれ」を書き始めてから丸六年が経過した。長い間お読みくださっている方は、最近、あることに気がついたかもしれない。 当初、いわゆる「肩書」で悩んだ。わが家まで足を運んでくださった宇都宮支局のデスクと相談した結果、やむなく「洋画家」ということに決めてしまった。 絵を描くために二十代から定職には就かず、絵はもちろん描いたが、写真を撮ったり、山に登ったり、何が本業か自分でさえ分からないこれまでの人生だった。 コラムを書き出して間もなく腎臓がんが見つかり、手術をした。大きな絵は体力を使うので、所属している美術団体の展覧会は、小品を描き数でしのいだ。何とか今も出品を続けている。 手術一年後、肺に転移。五年持ちそうもないということだったので、免疫力アップを期待し、今まで以上に野山に出掛け、好きなチョウや野の花や鳥などの写真を撮ることに全力を傾けた。 独身を貫き通し、一日のほとんどの時間を描くことだけに費やしている古い絵描き仲間(洋画家とはこのような人に使う肩書)に比べ、今では、お印程度しか描いていない自分が恥ずかしい。 新しく支局に来られたデスクに、肩書の変更を申し出た。「普通のおじさん」とか「何でも屋」とか提案したが、それでは困ると言われ、「自然愛好家」となっている。少しは心が落ち着いたものの、最後の「家」というのが気にかかる。物好きでやっているのに、「家」なんていう文字が最後に付くと、何だか荷が重い。 私がホームページに書いた文章を読んで声をかけてくださったことから始まった初めての執筆だが、これまで思いついたことを書かせていただき、内心、感謝している。 沢奥の荒地で、ベニマシコの一団に出合った。若い雄と真っ赤な成鳥。それに数羽の雌。ハンサムな雄に魅せられ六日間、鳴き声を頼りに探し歩いた。一日粘ると最低一度ぐらいは撮影チャンスがあるが、相手もそう簡単にモデルになってくれない。草むらに潜り、小枝の交差する向こう側でじーっと動かない。根比べの果て、私が動くと決まって逃げられ、それでその日はおしまい。やっと撮れても逆光の場合もあり、納得がいかない。 林道に車を止め、好物のイノコズチの種のあるポイントを探し、巡回する。車外にいないとわずかな鳴き声も聞こえないので、股引(ももしき)とズボンをはき、その上にオーバーズボン、羽毛服を着て野外に立っている。 ある日、山仕事をする二人のおじさんから話し掛けられた。一人はシイタケの原木切りらしいが、もう一人の年老いたおじさんの話は心にしみた。戦後、林野庁の「拡大造林政策」に乗せられ植林した杉や檜(ひのき)林が込み合い、気が向くと間伐をしているという。 今から四十五年ほど前の日照りの年、我が家もわずかばかりの山林に父が水を背負ってまでして植林した。それなのに、外国の木材の輸入が解禁され、手入れしても出費がかさみ採算が取れず、我が家の山は荒れ放題。 おじさんは、もう採算など気にせず、自分の子供を育てるように手入れに通っているようだ。太いが曲がっている木を切る。まっすぐだけど細い木を切る。そんな時、情がわくのか、なかなか思い切り良く切れないという。そして、こんなことを言った。「間伐は他人にしてもらうのが良いと昔から言うんだよ!」 こんな思いを抱きながら寒い真冬の山に向かうおじさんの姿に、植林して数年で亡くなった父の姿が重なった。 2010年 2月14日掲載 新年を迎えて早々の四日、月に一度のがんセンター診察日。場所は隣町の群馬県太田市郊外、利根川に架かる刀水橋に近い市の南端あたり。がんセンター駐車場から北方に、赤城山から足尾、日光へと続く白銀の山々が望めた。 わが家は足利市でも渡良瀬川の北側の山すそなので、そんな山々と対面するためにはハイキングコースを一時間半ばかり歩き、高台に立たなければならなかった。平地を南の太田市方面に行くと雪山が一望できることを知ったのは、だいぶ後のことだった。 腎臓がんの手術のため入院していたころも冬だった。病院の風呂の北窓から、ひときわ高い袈裟丸山、皇海山、そして何度も登った庚申山を眺めては術後のつらさを紛らわせたものだ。 子供のころから雪をまとった山々を見るのが好きだった。当時は山が好きでも、そう度々登れる身分ではなかった。地元から白く輝く雪山を見ては、北アルプスや日本各地の著名な山々に思いは広がり、足しげく本屋に通い、まだ白黒写真ばかりのガイドブックや山岳雑誌を立ち読みしては夢を膨らませていた。中学生ごろから回数は少ないがあこがれの山々に登り始め、帰ってきてからは、次回登ろうと思う山々の詳細を調べた。 「わずか数年で百名山を踏破した」。交通が便利になり経済も豊かになったためか、最近はそんなニュースが聞こえるし、中高年もこぞって山に登るようになった。 あのころの夢は少ししか実現しなかったが、関東平野の北や西に白く輝く峰々を見渡せば、いまだ熱い当時の思いがよみがえる。 一ヶ月少し前、脚立に乗って庭の手入れをしていたところ、足を踏み外し、後ろ向きに倒れた。運悪く、その場所には花壇を区切るレンガ状の硬い石が並べてあり、もろに尾てい骨を打ちつけた。単なる打撲だろうと甘く見て湿布薬を張って様子を見たが、痛みが一向に治まらない。 ヒビか骨折の疑いが濃厚。場所が場所だけにギブス固定はできず、ネットで検索したら最低一ヶ月はかかると書かれている。それからの日々はつらかった。立っていれば問題ないが、座ったり、お尻を下にして寝ていても痛む。もうすぐ還暦。視力、反射神経など、だいぶあちこちガタがきているようだ。 写真撮影が趣味で、毎週末ホームページの画像を更新している。何としても出かけなければならない。幸い最近は妻が運転を引き受けてくれているので穴を開けずにすんだ。 多々良沼では、超望遠レンズをがっしりした三脚に固定してカワセミの撮影をしている方々と、立ち話をした。そこに現れたカワセミを手持ちのカメラで私も撮っては見たものの、小さすぎて太刀打ちできない。やはり道具は必要でも、高額なので手が出ない。「中古ですよ!」と慰めの言葉をかけてくれはしたが、蝶や山野草、里山の自然撮影が中心の私は、「今のままでいい」と負け惜しみ。見上げればコハクチョウの群れが真上を通過した。手持ちの機動力を生かし、何とかものにできた。 移動時、車の中でお尻の片側に体重をかける。来春定年を迎える妻の協力のもと、過ぎ行く季節をともに楽しんだ。 2009年 12月6日掲載 月に一度、がんセンターに通っている。前々から疑問があったので、受付で質問をした。 一時間以上待って再診は十分ぐらい。医師はいつもの飲み薬とインターフェロン(IFN)を処方する。受付での支払い時、「在宅診療料」として千五百点算定されている。つまり再診料その他とは別に、一万五千円ががんセンターの収入となる。 処方せんでIFNを購入し、自宅で自己注射をしている。がんセンターからはこの四年間、「いかがでしょうか?」など電話一つかかってこない。在宅とは何なのか? 疑問に答えてもらいたく受付で聞いたが、窓口事務員も、また奥にいる事務長?も即答できず、来月までに調べておくとのことだった。翌月聞いたところ、お上(厚生労働省)が算定してよいというから取っている・・・、そういう答えだった。 「腎臓がん患者に対しIFNを処方した場合、千五百点算定できる」。こう書いてあるという。インターネットで調べたら同じ疑問を持つ患者が多数いることが分かった。一般の人が働いて一万五千円をもらうには一日がかりなのに、ここでは、お上が取ってよいから取ったと、いとも簡単に言う。 スーパーなどでの買い物は、「大根一本○円」と分かりやすいが、医療費の指導管理料など、診療報酬に関する算定基準は一般の人々にはわかりづらい。病院(医師会)側に立って診療報酬の値上げがまず先にあり、後から指導管理や在宅診療料などと考え付いたと思わざるを得ない。政治が強い者の味方では困る。 2009年 11月8日掲載 もう一つは、デジカメの普及で誰でも簡単に写真が撮れ、それを多くの方々に見てもらうことを楽しみとした自然に親しむ?中高年が急速に増えていること。 北限の生息地として有名なシルビアシジミの保護を行っているさくら市では、知人の話によれば「採集をしないで下さい」と看板が立っている前で、他県ナンバーの大人四人が補虫網を振っていたという。 自然に親しむことはすばらしいことだが、気をつけねばならないことが多々あることを認識した上で行動していただきたいものだ。 2009年 10月11日掲載 2009年 9月13日掲載 闘病中、メールで励ましてくださったり、CDから流れる透き通った美しい歌声に、頑張れそうな前向きな力もいただいた。今回、”非公開”で行われた「山本潤子わたらせコンサート」。私のホームページに載せた写真を潤子さんのCDジャケットに使っていただいたご縁から思いもよらぬ展開となった。 何よりもうれしかったのは、冬山で遭難した山仲間の女性Tさんや尊敬していた山の先輩故Nさん、そして、遠くて来られない仲間たちのために私がリクエストした「はるかな友に」という曲を練習して歌ってくださったことである。「翼をください」とともに、みんなで大合唱し、二時間以上にわたるコンサートは、いつまでもそこに留まりたい思いを残したまま幕を閉じた。 いまだ余韻が冷めず、あの澄み切った歌声が心の中を流れ続けている。 2009年 8月16日掲載 私と同世代の人間は、職場での地位もおのずと高く、長い間に学んだ人生観がある程度出来上がっているので自信もあり安易に妥協もしない。軋轢を恐れて常に一人で行動すれば問題は起きないだろうが、それではどこか寂し過ぎる。マイペースに行動して、それでも認めてもらえる関係作りはなかなか簡単ではない。もともと生育歴が違うのだから、かなりの部分で価値観が共通する人なんてありえない。長年、夫婦をやっていても、つまらないことで言い合いをしてしまう。親しいがゆえに油断し傷つけるような会話をしてしまう。甘えなのだろうが・・・。 いろいろ自分なりに考えた。良い関係を続けるには頻繁に会わないほうがよいようだ。相手に深入りせず、考えの違いに気づいても離れている時間がこだわりを薄めてくれる。 同じ目的を持った者同士が何日も重いテントを担いで縦走する、いわば困難に立ち向かうような緊張感あふれる場面なら、方向性がはっきりしているので、むしろ充実感を伴った連帯感を感じられるのだろうが、そんなことも少なくなった。 歳をとるということは角が取れ、丸く穏やかになるような気もしていたが、自ら孤独への道に入り込んでしまう危険性が潜んでいる。気をつけよう。 2009年 7月19日掲載 前回のこの欄で清志郎さんのことを書いたが、彼の歌に「パパの歌」(作詞・糸井重里)というのがある。「働くパパはちょっとちがう 働くパパは光ってる…」。家の中での緊張感のない姿と職場で汗をかきながら働く姿の違いをユーモラスではあるが温かい目線で見つめている。 私の妻は長い間、今で言う特別支援学校などの教育に携わってきた。結婚以来三十年以上の歳月が流れたが、学校で働くママ(とは呼んでいない)の姿をほとんど見ていない。実は結婚前、プロポーズ?しに広島まで出かけた際、当時の養護学校に案内され妻の仕事の一面を初めて知った。 先月末に予行練習、そして今月上旬、足利市民体育館において特別支援学校の運動会が行われた。「たまにはボランティアしたら」と言われ、得意分野?の撮影係として二日間で千枚以上撮影した。思った以上に体育館内は暗く、ストロボを使わずISO 4000という、いまだかつて使ったことのない高感度撮影を行った。写真の出来の良し悪しは担当の先生方の判断に任せるが、二百名もの生徒が次々に繰り出す魅力的なプログラムを、レンズを通して細部まで見ることができた。ときどき、妻の様子もチラリと見ては「昼間のママ」の姿を脳裏に焼き付けた。清志郎さんの歌と違い、家に帰っても常に働いているわが家のママ。「昼夜のママは輝いている」とでも歌詞を直して歌ってあげようか。 もう半年とわずかでその仕事から離れ定年となる。今ごろ、垣間見てこのようなことを書くのは申し訳ないが、今回のボランティアは生徒のことや妻のことをあらためて知る良い機会となった。 2009年 6月21日掲載 今月2日、忌野清志郎さんががん性リンパ管症で亡くなった。私の父が亡くなった年齢と同じ、そして私と同じ58歳。なんだか妙に気になって、闘病中で時間のある私は、インターネットの動画サイト「ユーチューブ」で一日中画像を見たり音楽を聴いたり歌詞を検索したり、彼の世界を申し訳ないが今ごろになって調べてみた。 野の花・蝶・鳥など自然が好きな私は、自分の世界にどっぷりつかり、偏見ほどではないが、ホトトギスのように、なんだかやかましいロック音楽をじっくり聴いたことはなかった。にわか知識でものをいうのははばかれるが、本当の優しさ、正直に生きるということの力を教えられたような気がした。失敗しない人生、傷つきたくない自分、いい子でいた方が得、なんだかうそっぽい。本当はわかっているのだけれど安全な道を歩きたがるし、親としても子にそう望む。 青葉の美しい季節。清志郎さんが声を張り上げ大切なものを教えてくれたような気がした。 2009年 5月24日掲載 山桜が咲き若葉が萌えるやわらかな春から、力強い初夏に向かい季節は流れる。晴れさえすれば蝶や山野草を探しながら近場を巡回する私だが、このところガッカリすることが何度もあった。 早期の全線開通を多くの人々が期待している?北関東道。足利インター付近の変わりようはすさまじい。オイカワ釣りを楽しんだ小川は、川床が平らになり味気なくなってしまった。佐野市の旗川沿いのポイントは架橋工事で寸断され、付近の雑木林もかなり伐採されてしまった。堤谷は鳥や蝶の宝庫だったが、沢が埋め立てられ丘になり、今ではゴルフ場に変わり、思い出そうと近くまで何度も出かけたが想像すらできない。 蝶が生息するには、食べる草や樹木、そして吸蜜元となる野の花などがセットで必要だ。蝶が何百と産んだ卵から育つ幼虫の多くは野鳥や蜂、蝿などの餌となる。何かが欠けると自然はバランスを失い、繁殖力の強い外来種などがはびこる味気ない野山になってしまう。 オオムラサキやカブトムシの集まったクヌギ林も切り倒され埋め立てられた。お寺の庭木は切られることはないだろうと思っていたら、付近に石垣を作る際あっさり切られてしまった。足利市内で、ここのアワブキほど条件の良い場所に育っていた木は他に知らない。もうスミナガシやアオバセセリの幼虫も簡単には探せない。たった一本の木ではあるが、何十年もかかり立派な木に育ったのに、「邪魔だから・・・」でおしまいとはやるせない。 そんな光景に出会うたび妻に愚痴をこぼし続けている。「何人もの彼女を失った気分だ!」 爽やかな季節のはずなのになんだか気が重い。 2009年 4月26日掲載 我が家には二十代の二人の娘がいた。すでに職について独立している。したがって今は妻と二人住まい。実は二人が住んでいる正確な住所を私は知らない。 長女は高校を出てから東京の予備校で学んだが、そこにも、合格後の函館の住まいにも行ったことがない。オーストラリアへ交換留学生として行ったときも、イギリスに語学の勉強ということで行ったときも、何一つアドバイスもせず自分で住む家は見つけさせた。資金もアルバイトで稼いだ金を使ったようだった。私はこれを「放牧教育」と勝手に呼んでいた。自分の食べる草は毒草をよけて自分で探せ!と。 ところが、外国から帰ってきて我が家で同居するようになってから、気になることが続いた。就職後の疲れからか話しかけても答えない。それなのに私の話す内容が納得できないと反論する。そこで私が、「出て行け!」と言ったら、出て行ったまま、すでに一年以上経過している。 私の父親は厳格というか勝手というか、気に入らないとお膳をひっくり返すタイプだった。男三人兄弟の長男だった私は反抗などしたことは一度もなかった。私の時代になってから女ばかりになった。育て方が間違っていたとは思わない。妻は、若さゆえに正義感が強いのだろう、との理由で深入りしない。 「ふるさとは遠きにありて思うもの」。わが子も離れて暮らしていて、たまに帰ってきたときにごちそうでも出して歓迎し、また離れ離れで暮らす。これが良かったようだ。慣れない同居でお互い気が緩んだ結果が今の状態、と思ってはいるが、怖がられているのかと思うと心が痛む。 2009年 3月29日掲載 腎臓癌になって今年で五年目。五年生存率という言葉があるように、「他臓器に転移しても五年経過して癌が消滅すれば、その癌はひとまず治癒したものと考えられる。その後見つかった癌は治癒後の新たな癌」そう知り合いのF先生に言われていた。 実は昨年秋のコンピューター断層撮影(CT)検査の結果、画像から癌であるはずの白い部分が消えかかっていた。あれから数ヶ月。今年になって、がんセンターの担当医にもう一度CT検査をリクエストした。二月に聞いた結果からも癌が消えている。医師も何が効いたのだろうと首をかしげている。 腎臓癌は、抗がん剤は効かず、放射線療法もダメ。唯一、免疫療法剤であるインターフェロンの自己注射を現在も週三回続けている。欧米ではインターフェロンはもはや過去の薬と聞かされた。日本でも新しく分子標的薬の抗がん剤、ネクサバールやスーテントが昨年の四月、五月と続けて認可された。ところが「夢の新薬」と騒がれたそれらの薬もかなりの副作用があり、途中中断する患者もいるという。担当医は、「田村さんにはインターフェロンが合っているようだからこのまま続けましょう!」・・・と言って新薬はすすめない。 信頼するF先生にその話をしたら、同じがん患者に対し希望を持つように、これまでの闘病記を書いたらいかがですか!と言われた。 五年生存率がゼロに近いと言われたが、多くの方々に励まされ、「免疫力は気持ちから」・・・と、野山に出かけ好きな写真を撮り、絵を描き、前向きに生きてきた。これらが良い方向に向かった原因かどうかは断言できないが、あきらめてはいけない・・・そう思っている。 2009年 3月1日掲載 あんなに好きだった登山から遠ざかって以来、だいぶ年月が流れた。蝶の採集から山に入り、高校時代は山岳部。その後、青春時代は絵を学びながらも毎年それなりに登ってはいた。いつのころか山の登りすぎが原因と思われる膝やくるぶしなどの痛みが怖くなり高い山には登らなくなってしまった。 昨年暮れ、あることを思い立ち行動に移した。計画を実現すべく何度もメールのやりとりを、ある方としているうちに山の話題が持ち上がり、久しぶりに山への思いで胸が熱くなった。 三十数年前、偶然、北アルプス裏銀座コースで知り合った登山者十三名。(妻はそのときのメンバー)。今年は喪中だったが、何通か年賀状が届いた。その中で、当時京都大学のお兄ちゃんだったO君からの小さな字での書き込みが目を引いた。「三俣蓮華のあたりはあの時以来でした。お花も多く、残雪もまだあり・・・」出会いの地を昨年八月、歩いたそうだ。鹿児島に住むO君とはそのとき以来お会いしていないが、彼もまた蝶が好きだったこともあり、赴任先の米国からの手紙や帰国後も年賀状での交流はいまだ続いている。 癌の状態も良い方に向かっているようだ。少し足腰を鍛えなおし、のんびり欲張らず、花や鳥の鳴き声を聴きながら、あのころへの山旅に出たいなあ、と思うようになった。 2009年 2月1日掲載 皆さん年賀状は書き終えただろうか?メール時代でも年賀状はもらいたいというのが本音だそうだ。昔、年賀状作りに凝っていたころがあり、毎年三百枚ほど、一枚一枚時間をかけて着彩していた。その日の朝から晩まで描き続け、その繰り返しを何日間もやり続けた。もらう人は一枚だけだから、私のこだわりは理解してもらえなかったろうが・・・。 広島の義父は水彩画や油絵が趣味だった。膨大な絵は妻の実家に静かに眠っている。一度も個展などしたことはない。そこで義父の絵を添えてやろうと考えついた。妻にデジカメを使った絵の撮影方法を教え、帰省のおりに何枚か撮影してきてもらった。ソフトを使えば、喪中はがきはパターンが何通りかあって、それを利用して作れば簡単なのだが・・・。好んで描いていた港風景。その中から停泊する漁船の絵を二枚ほど選んだ。上半分は、「喪中につき新年のご挨拶は失礼させてー」という決まり文句だが、下半分には義父の絵がピタリと収まった。 郵便局に持って行き、既に投函したが、あとになって妻と二人心配になってきた。というのは、内容を読まないと、喪中はがきに見えないので、年賀状と間違って元旦に届けてしまわないか? と。お年玉付き年賀はがきではないし、表に年賀の表示も書かなかったので間違いはないだろうが。 描かれた絵を見た人たちが亡き義父をしのんでくれたなら、義父もどこかで喜んでくれることだろう。
2008年 12月21日掲載
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