東京新聞栃木版コラム「四季つれづれ」掲載文T

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☆ 新しいものを上に足してゆきます



豊かな自然の実情

私がたびたび訪れる佐野市飛駒地区は、里山と呼ばれるにふさわしいところ。四季折々の自然が楽しめる。

 飛駒川に沿って道路が上流へと続くその両脇に、田んぼや畑が心地よく広がる。その広さがほどほどなのがお気に入り。あまり広すぎると、細部を散策するのが難しく、ただ通りすぎてしまう。

 人家に接した道を、のろのろと車を走らせ、キョロキョロしていると、多くの花やチョウなどが目に留まる。ここでは、いまだ自然と人間との関係が健康な証拠・・・と、よそ者の私は思う。

 道沿いの畑で、モンシロチョウが交尾している場面を撮影していたら、農家のおじさんがやって来て、立ち話が始まった。最初は、「ゴーヤの実のつき具合が悪い」・・・とか、「無農薬でがんばってみたが、ほとんど害虫にやられ収獲にいたらない。農薬も使わないわけにはいかないねえ!」・・・そんな話をした。

 次に話は動物による被害に及んだ。あちこち里山に出かけて、昔と変わったことといえば、田んぼや畑の回りに柵がしてあったり、電流が流れるよう囲ってあることだ。イノシシの被害がどこでもすさまじく、囲ってみてもやられてしまい、とうとう畑作りをやめてしまった農家もあるという。

 確かに、イノシシの掘り起こした土が散乱している場所が非常に多い。ワナを仕掛けてみても、獲れるのは小さな子供のイノシシばかりで、大物は、なかなかかからないそうだ。

 それに、最近では、そんなに山奥でもないのに五十頭もの猿の集団がやって来て、農作物を荒らすと嘆いていた。相手もかしこく、熟したころにやって来てことごとく食べ尽くしてしまうと言う。そんな話が一時間ばかり続いた。

 私たち町に住む人間が時々訪れては、豊かな自然が残っていて、いいなあ・・・なんて勝手に思っているが、農村風景を維持することは難しい。我が家の庭の草刈さえ、なかなかできないでいる私だ。

 里山で出会う腰の曲がったおばあさんや、日に焼けたおじさんたちのご苦労に対し、あらためて深く感謝したい。

                  2006年 9月24日掲載





草刈を終えたおばあさん




ヒグラシの大合唱

 八月も残り少なくなったある日の午後、クーラーの効く部屋で寝転んでいた。こんな暑い日は出かけるのも億劫になる。訳もなく立ちあがって、ガラスごしに炎天下の庭を見渡せば、ヒャクニチソウが相変わらず元気に咲いている。その他、しばらく前から咲き続けるシュウカイドウ、そして、可愛いピンクのスルボ。

 突然、何かが目の前を横切った。いきなりシャラノキの木陰にぶら下がったのは世界一がっしりした体格のトンボ・オニヤンマだ。(体長や羽の長さでは中南米に生息するハビロイトトンボが勝る)アゲハチョウの種類も、暑い日には木陰で休んでいる姿をよく見かける。私と同様、あまりの暑さに木陰で一休みと言ったところか?

 暑さにも負けず、庭で声を張り上げ鳴いているのはセミたち。彼らは長い年月を土の中で木の根から汁を吸って生きている。やっとの思いで成虫になったのだから、「やかましい!」と腹を立てず、もう少しの間、我慢してあげよう!

 注意して聞けば、秋を告げるセミ、ツクツクボウシが、盛んに「オーシンツクツク、オーシンツクツク」と鳴いている。遠くでは「ミーンミンミンミー」「ジージリジリ」、ときおり、「カナカナカナ」

 元気が良すぎるのが多い中、好感が持てるセミは、「カナカナカナ」のヒグラシ。ヒグラシの正式な名前は、「動物界、節足動物門、昆虫綱、カメムシ目、ヨコバイ亜目、セミ科、ヒグラシ属、ヒグラシ」地下生活も長いが、名前も長い?触ると臭いカメムシや、稲の害虫ツマグロヨコバイに近い昆虫。・・・皆さん、知ってました?

 ヒグラシの早朝の大合唱は、気温が上がる前のひととき、波が押し寄せやがて引いていくような音色に、心地よい清涼感を漂わせる。また、物悲しい鳴き声に秋のセミと思われがちだが、本当は夏の初めのセミ。今日は聞こえたがもうじきその声も聞こえなくなる。

この日、遅くまでセミの鳴き声を一人聞いていた。六時を過ぎてもまだ聞こえる。その中に、秋の虫たちの声も交じるようになった。

 梅雨明けが遅れ、その後暑さの戻った今年の夏も、いよいよ終わりとなる。

                 2006年 9月3日掲載



庭で鳴くミンミンゼミ




雑木林の獲物たち

 この日、私と友人は国蝶・オオムラサキを撮影しようと、佐野市の雑木林を訪れた。今年は例年に比べ発生にむらがあったようで、何度か足を運んだが今まで見つけることができなかった。それが今日はたくさんいて、まずは一安心。

 オオムラサキは、クヌギの木など樹液の出る場所を好む。そこには、カナブンやオオスズメバチ、そして、子どもたちに昔も今も人気の高いクワガタムシやカブトムシもやって来る。

 高いクヌギの木を見上げれば、最近あまり見かけないミヤマクワガタの大物が、独特のハサミを突き出し木にしがみついている。中年のこの歳になっても、テンションが上がってしまうのはなぜだろう?友人と二人、真剣になって取り押えた。その後、カブトムシの大きいものや、美しいタマムシを見つけ納得して山を下った。

 まだ日も高い、足利市の渡良瀬川の土手下にある大きな二本のクヌギポイントに移動。今度はゴマダラチョウの撮影が目的だ。数日前にも撮影に訪れ、しばらく粘っていたら、年配のおじさんが手製の網を持ってクワガタムシやカブトムシを採りにきた。聞けば孫のために採ると言う。

 最近では市街地周辺から、カブトムシやクワガタの飛来する雑木林や、クヌギの木が消えた。夏休みの楽しみでもあった、そんな昆虫を探す子供の姿も見かけなくなって久しい。

 ところが、この場所に、自転車に乗った三人の小学生が目を輝かせてやって来た。降りるなり、すぐ樹液ポイントを目指し「スズメバチがいるぞ、気をつけろ!」などと元気な言葉が飛び交う。

 しばらくぶりに見る懐かしい光景・・・そうか、今でもこんな子供たちがいたんだ!子供たちではとどかない高い位置にカブトムシがいる。何だかうれしくなって、おじさんたち二人が話しかける。「おじさんが長い網を貸してやろう!」三人は、スズメバチを気にかけながら採集に挑む。なかなかカブトムシもしぶとく、木から離れない。やっとのことで手に入れ興奮する三人。

 すると、友人のおじさんが車に戻り何やら持って来た。見れば、山の雑木林や広場で見つけた、大きなカブトムシやタマムシを持っている。友人も孫にあげようと、いつもは撮影のみなのだが、今日は採集してきたのだ。それをあげるという。三人の子供の顔に笑顔があふれた。

 さて、内緒にしょうか迷ったが白状しよう。友人のおじさんは、あの山で採った大きなミヤマクワガタだけはあげなかった(笑)

                  2006年 8月13日掲載



大きなミヤマクワガタ




30年前の山男たち

 夏山シーズン開幕だ!若いころ、毎年この時期は何日もかけて、北アルプスなどを縦走をしたものだ。北アには日本を代表する名峰が立ち並ぶ。槍ヶ岳・穂高岳・剣岳・・・そんな山々を目指し、登山者が全国各地から訪れる。二十代、弟と二人で烏帽子(えぼし)岳から上高地まで裏銀座縦走コースをたどった。

 日本三大急坂の一つ・・・ブナ立尾根を喘(あえ)ぎながら登り、やっとの思いでたどりついた湿っぽい烏帽子小屋には、東北や九州からはるばるやってきた単独行の登山者たちが、部屋の片隅に小さくなっていた。何を話したのか忘れたが、お国なまりの交じるそんな人達との語らいが新鮮だった。東北弁・大阪弁・広島弁・熊本弁・鹿児島弁・・・。

 翌日、縦走路を歩いていると、同じ人達にまた出会う。追いつ追われつしているうちに親しくなり、次の山小屋では、日が暮れるまで小屋の前で語り合った。そして次の山小屋でも・・・。気がつけば十三名もの山仲間ができあがっていた。このまま、再び会うこともできないのでは寂しいなあ・・・と、下山後、名簿代わりに、冗談で「JBC山岳会会報」の形をとって送った。

 各地から膨大な返事が私のもとに届き、手書きの会報は二十号ぐらいまで続いた。毎年、この季節になると、各地から山仲間が集まり有意義な再会登山を繰り広げた。

 あれから、三十年以上の歳月が流れた。何回も合宿に参加した熊本のKさん、そして、横浜のNさん、・・・・山が取り持つ縁で長い長い年月、途絶えることなく交流は続いた。

 七月十三日、熊本のKさんと二人で横浜のNさん宅を訪ねることにした。二十数年ぶり、目の前に現れたKさんの白髪の混じった頭。私だって同じ。新雪から根雪に変わり、高山帯も出現?「懐かしいねえ!あのころが・・・。」

 Nさん宅で奥さんと三人、懐かしいアルバムを開きながら、時のたつのも忘れ、頑固だけれど優しかったNさんをしのんだ。かたわらではNさんの遺影がほほ笑みかける。「なんで死んじゃったんだい・・・Nさん!」

 槍ケ岳山荘から三方に別れた十三名の仲間・・・そのときの思いに似たような、後ろ髪をひかれる思いを胸にNさん宅を後にした。外に出ると、太陽が照っているのに雨が落ちてきた。「あんないいやつ、どこにもいない。」そんな山の歌があったっけ・・・。

                2006年 7月23日掲載



出会いの地から鷲羽岳を望む (1975年7月)




「何でも屋」

 このコラムを書くにあたって、職業はどうしますか?と尋ねられた。私は医療関係の仕事や損保の代理店などいくつかやってきたが、本当は、ほとんど収入のない絵を描いたり、蝶や鳥や野の花を撮っているほうが気分は本業だった。

 しかし、その時は「何でも屋」と書くのも変と思い、担当の方と相談し、結局「洋画家」になってしまった。私が書いた文章が載っている新聞が届く度に違和感がある。「何でも屋」と胸を張って書くべきだった!売れない(売らない)絵を描いているのに洋画家だなんて・・・。

 最近、日本とイタリアを舞台にした盗作疑惑問題が起きたが、皆さんもそのニュースを一度は見たり聞いたりしたことだろう。どう見たってあれはおかしい!でもあれだけそっくりに描ける「模写技術」には感心する。あのお方は、結局、上手だっただけなんでしょうねぇ・・・。

 あの難関の東京芸大に入れたのだから、試験をパスする能力や技術は確かに持っていた。でも彼に足りなかったのは、何にこだわり、何を大切に描くかという、自分の体の中から涌き上がる叫びがなかったのだろうと思う。イタリアまで魂を仕入れに行った絵画業者、または、単なる職人芸・・・と「何でも屋」の私は考える。

 職人芸と書くと職人さんを低く見ているように思えるが、魂のこもった作品は、たとえ売るための作品だって人の心を打つ。私のHPのどこかに書いたが、芸術家という呼び名だってなにか怪しい!絵にしても何にしても、一生懸命自分の世界を表現している人は大勢いる。どこからかが芸術家で、どこまでが素人なのかわかるはずがない。あちこちの公募展に入選し、有名な絵画団体の会員になり、個展をして作品が高くても良く売れる。これが芸術家? 芸術?作品には天文学的な値段がつくのも、間違いの元・・・。

 どうもこんなこと書くと売れない絵描きの負け惜しみみたいで、読者の方々は笑うだろうが、それでも私は「何でも屋」を死ぬまでやっていく。

 いつも、私が撮った写真ばかり載せているので、たまには絵も載せてみることにしよう!ここでは恥ずかしながら「洋画家」になっているんだから・・・

                2006年 7月2日掲載



私が描いた絵「朽ちるまで」




便利さ求めた代償

  毎週、必ず里山周辺を一回りしてくる。あんなにさわやかに咲いていたカタクリやフジの花も姿を消したり花びらを落とし、今ごろはホタルブクロやオカトラノオに変わる。ウグイスが「ホーホケキョ」と、のどかに鳴いていた浅い春から、主役は、「トッキョキョカキョク」とやかましく鳴く初夏の鳥、ホトトギスに変わった。

 この四季の移ろいは、大昔から変わることがなく、たとえ桜の開花が一週間ぐらい遅れても、そのうち帳尻が合い1年を通じさまざまな自然と再会できる。

 不必要な開発など自然破壊が要因で、突然消滅するやりきれない場合はあるが、残された草や木々、そして生物たちは季節の声に従って、子孫を残すべく営みを繰り返し、また翌年同じ姿を私たちに見せてくれる。

 ところが人間社会は、もはや元に戻れないほど変わってしまった。最近多発する小学生が犠牲となる残虐な事件。私が育ったころは、親が子どもに関わるなんてほとんどなく放牧状態だった。今では、通学中も帰宅途中も安心できない。公園で遊ぶ事さえ心配に思えてくる。

 東京タワー・高速道路・東京オリンピック・新幹線(昭和三十三年三月〜三十九年十月の間に順に開業した。)・・・子どもの頃、これらは豊かな日本の象徴に思えた。

 「未来の都市を描きなさい」・・・と美術の時間に言われると、決まって高いビルが建ち並ぶ中、立体交差のある高速道路が張り巡らされた絵を描いたものだ。

 そんな、夢の未来が現実となり、日本中ビルが立ち高速道路も北から南、東から西まで網の目のようにつながった。しかし、本当に豊かになったのだろうか?ケイタイ電話で会話出来ることだけでも驚いたのに、決済に使用できたり、音楽が何百曲だか聞く事が出来たり、ナビゲーションにも使えテレビも見られる。

 徹夜で書いたラブレターを、朝の明るい光に当てて読み返したら、気恥ずかしくなり渡す事が出来なくなったこと。レコード盤が買えず、安いペラペラのビニール製レコードを買ってもらい何度も聞いた懐かしい曲。憧れ、期待し、待つ。手に入れるまでに苦労があればあるほど大切に使う。それがケイタイ電話一つあれば、何でも簡単便利!

 今の日本人は、便利さを追いかけているうちに、大切な何かを失ってしまった。

                2006年 6月11日掲載



道端に咲くホタルブクロ




「田植え大会」の思い出

  五月は田植えの季節。新緑の山々を背景に、整然と植えられた苗が風になびく光景を見れば、薄れかけた農耕民族=日本人の記憶がよみがえってくることだろう。今では機械化が進み、田植えも昔に比べると簡単になったように思えるがどうなのだろう?

 今から四十数年ほど前、当時農家であったわが家は、イチゴや桃などを自宅で売る果樹園をしていた。でも、稲作もわずかだが父がやっていた。農家の長男に生まれた私は、父が亡くなる(私が18歳の時)まで農家の仕事には一切かかわったことはなく、都市銀行に就職し東京に出てしまった。父が亡くなったので田んぼはどうしよう・・・。弟二人はまだ高一と中三だったし・・・。母一人でだいじょうぶだろうか?

 当時、田植え用の苗を育てるには種籾(たねもみ)を蒔(ま)きつける「苗代ごしらえ」が大切な仕事だった。うまく育たないとその年の田植えが出来なくなる。この難しい技術が必要な「苗代ごしらえ」や耕運機による「代掻(しろか)き」は、近所の専門家に頼んでやってもらった。今では、ビニールハウス内に60×30、深さ5センチくらいの専用プランターに籾を蒔いて機械植えをすると言う。

 その前に書かないと読者が混乱する。私は、銀行マンには向いていなかったようだし、長男なので、さっさと銀行を辞めて足利に帰ってきたのだった。(本当はだいぶ悩んだのだが・・・)

 さて、田植えをするには助っ人が必要だ。親しい友人数人に声をかけた。農業経験のある友人の母親も加わった。もちろん私の母も。レジャー感覚で田植え大会?を行ったのである。当時の田植えは手植えなので、まず、小分けにした苗束を田んぼにばらまく。整然と植えるには一定の間隔の棒二本にヒモを巻きつけ、田んぼの両端に棒を立て、ヒモを直線に張り、そのヒモにそって苗数本を親指と中指、人差し指でつまみ、ぬかるんだ土の中に差すように植え込む。山際の田んぼには小石が多く混じっていて爪(つめ)の甘皮がささくれて、とても痛かったのを思いだす。

 秋の稲刈りも友人たちを頼りにし、無事「米」となった。収獲した米は、助っ人の皆さんに分配したのは言うまでも無い。こんな事が数年続いたが、素人集団では限界もあり、経費もかかり、にわか農業はやめてしまった。

 わが家の周りから次第に田んぼが消えた。私もそんな大好きな光景を消し去った人間の一人・・・。

                 2006年 5月21日掲載



田んぼを訪れたチュウサギ




幼少の思い出

 私は、このコラムを書かせて頂いているが、滅多に本など読まず、暇さえあれば野山に出かけたり、絵を描いたり好きなことをやっている。

 最近、妻が一冊の本を図書館で借りてきた。この本なら、ものぐさな私でも読むだろうと、目のつきそうなテーブルの上にさりげなく置かれていた。見川鯛山(みかわたいざん)著、「これにて断筆『山医者のちょっとは薬になる話』」と言う活字の大きな本だった。

 見川鯛山は、皆さんご存じだろうが、那須でへき地医療を続けるかたわら「田舎医者」など14冊の小説、随筆を執筆し、昨年八月五日心筋こうそくで亡くなった。八十八歳だった。友人が著者と面識があり大ファンだったので、以前何冊かお借りし、その時は珍しく一気に読み通した。山医者と住人との信頼に満ちた温かい交流が面白おかしく、また悲しく、時にエロチックに描かれている。

 読んでいると、貧しくても心豊かだったと思える、私の幼いころを思い出す。

 私の家のすぐ上には、粗末な小屋に住む一人暮しのおじさんがいて、盆栽作りなどが趣味だった。初夏になると土間から竹の子が生えてくる。小学生だった私と仲良しで、遊びに行っては、その様子を興味深く眺めては、自分もまた盆栽作りに励んだ。

 ある日、小屋の中に、等身大のおじさん座像が赤土で作られているのを見つけた。私は彫塑を習った事がある。だから、出来あがったものを石膏(せっこう)どりして、永久に保存できる方法を知っている。そのおじさんは、先のことなど考えず、作りたい衝動に任せ、その辺の赤土をこねて自己流で作ったのだろう。結果はひび割れてしまい保存は不可能なものとなったが、魅力的だった。

 もう一人、口がうまく仕事嫌いで酒好きなおじさんがいた。わが家には、米がなくなると「一升貸してくれないか!」とやって来る。うさんくさいと子供ながらに思っていたが、野鳥が好きだったり、キノコを採ってくるのが得意だったりで、つい見る目が甘くなってしまうのは、両親と同じだった。借金や米が返せないと、田んぼを手伝ったり、草刈をして帳消しにしていた。そんな不思議な人達も既に亡くなってしまい、乾いた時間だけが過ぎて行く。

                  2006年 4月30日掲載



畑を耕すおばあさん=足利市樺崎町にて




命思う春の野山

 初めて蝶(ちょう)を見た日を初見日と呼ぶ。私が今年観察した範囲では、早いものから順に書くとモンキチョウはニ月二十五日、モンシロチョウは三月十一日、ベニシジミは三月十八日だった。これらの蝶は春を迎え、いち早く羽化する今年生まれの蝶たちだ。

 冬の間、成虫で越冬するキタテハやキチョウ、ウラギンシジミなどは、じっと同じ所で寒さを絶えている。そんな姿を探し出すのはなかなか難しい。春も近づくと、暖かい日には越冬場所から飛び出し姿を見せる日もある。そして、いよいよ気温の高い日が多くなると、あちこちで成虫越冬後の蝶を見かけるようになる。

 蝶ばかりではない。花たちもまた同じように、年内から咲いているオオイヌノフグリやホトケノザを見つけ、日当たりの良い斜面にスミレやタチツボスミレを探す。セツブンソウ、フクジュソウ、ザゼンソウ、カタクリあたりまでは、浮き浮きしながら春の訪れを実感しょうと、慎重に咲き始める時期を気にするし、確かめにも出かける。もう何十年もの間、春を迎えるたびに、繰り返しこれらの蝶や花たちを順に見てきた。

 桜の花が咲くころになると、いよいよ冬ともお別れ!

 野山には一斉に花たちが咲き出し、蝶も次々と新しい種類が顔を出す。もうこうなると順番はどうでも良く、イキアタリバッタリでご対面を楽しむ。

 めぐる季節の中で、蝶や花たちは、越冬、繁殖、開花、結実、その間、消滅(死)をも含め、そんな繰り返しが永遠と続くかのように思える。植物の中でも、屋久杉ではニ千年を超える巨木が見られると言うことだが、ほとんどの生物は数十年がいいところ!
 蝶などは成虫になってから、一年間生きられるものはいない。世代を繰り返すので、春になればモンシロチョウやモンキチョウなど毎年見られるが、去年見た蝶と同じではない。人間だって「あと百年もすれば、みんないれかわる」と山本潤子さんが新曲の中で歌っている。

 人間の一生は長いのだろうか?私は、この先、何度春とめぐり合う事が出きるのだろう。若く健康だったころは、再びめぐり来る春を当然の事のように思っていたが、癌(がん)にかかってからはそうは思わなくなった。限りがあることを実感した。

 さあ、皆さん!今年も再び春がめぐってきました。野山に出かければ素晴らしい自然が待っています。貴重な一瞬を確認しに出かけましょう!

                 2006年 4月9日掲載



春の女神  ギフチョウ




故郷破壊は望まない

いよいよ、本格的な春を迎えるが、野山に出かけるたびに気になることがある。私の住む足利周辺では、今、北関東自動車道の建設が進んでいる。隣の佐野市から、川を渡り、早春にはマンサクの咲く小高い山を越え、里山の田畑が広がる中を横断して再び山を越える。

 周辺は私の散策コース。慣れ親しんだ地元の自然がじわりじわりと壊され、見なれた視界の中に、巨大なコンクリートの道路が横切る姿を想像すると複雑だ。

 インター付近は、既に今まで立っていた民家が壊され、土台だけが廃墟のように四角く並んでいる。それなりの補償はあったのだろうが、長年住み慣れた場所を立ち退くのはつらかろう。橋のたもとに大きなセンダンの木があって、冬場にはヒヨドリやムクドリなどが、薄黄色の実をついばんでいたが、それも切られてなくなった。

 山際の湿地に茂っていたハンノキ林も半分切り倒され、残る半分もじきに切られることだろう。この辺では少なくなったミドリシジミが生息し、初夏のころキラキラと輝きながら飛ぶ姿はもう見られなくなる。

 目的地に速く到着できる高速道路は確かに便利だ。完成を心待ちにしている人達も多いだろう。しかし、日本中張り巡らされている高速道路の場所にも、それぞれ独自の自然がかつてあったはずだ。建設のために植物や昆虫、動物などが受けた影響は計り知れない。また、今までと違ってしまう景観に、心を痛めているのは私だけだろうか?

 今、日本橋の上に架かる首都高を取り払おうとする話が持ち上がっている。元の景観がよみがえることはそれなりの意義があるだろう。しかし、その費用は数千億円かかると言う。一度失った景観を元に戻すには膨大な費用がかかる。日本橋に比べ、地方の高速道には、それほど関心が無いかもしれないが、ここにも人間が関わった長い歴史がある。宅地開発、ゴルフ場開発、今までにも多くの自然が失われた。これ以上の変化を私は望まない。生まれ育った故郷の姿は、いつまでも変わらないでいてほしい!

                2006年 3月19日掲載



ここを北関東道が横切る




春の訪れ感じる

 「春は名のみの風の寒さや・・・・」 足利美術協会の総会の際、「早春賦」を皆で歌った。心に染み入る美しい歌詞や旋律は、自然とともに過ごした懐かしい時代をもよみがえらせた。あれから、一ヶ月。大寒波が襲来し厳しかった今年の冬も、暦の上では立春もだいぶ過ぎ、いよいよ、人それぞれ春の訪れを何かで実感していることだろう。

 毎年二月上旬ころ、石灰岩地を好むセツブンソウがまず咲き始める。属名「エランティス」はギリシヤ語で、春と花の意味だという。まさに春を告げる花。また、黄色が鮮やかなフクジュソウに春を感じる人もいるだろう。両種ともキンポウゲ科で毒がある。早春賦にあるようにウグイスのさえずり「ホーホケキョ・・・」を聞くまでは春の到来を納得しない人もいるだろうが・・・!。

 ところで、最近の「里山の可憐(かれん)な花たち、散策・撮影ブーム」には驚く。毎年出かける、私の知っているセツブンソウやカタクリ自生地にも、遠くからバスを仕立てて撮影隊がやって来る。その多くが中年過ぎの方々で、それぞれに立派なカメラや三脚を持参し、身支度も様になっている。都会の中で、子育てや働くことばかりに時間を費やした人々が、これからは心の隅にしまっておいた懐かしい記憶を取り戻そうと、すごいエネルギーを抱いてやって来る。自然回帰大衆化時代の到来か?

 チョウにしても花にしても絶滅危ぐ種と言う言葉が頻繁に登場する。この数十年の間に私の周りから多くの植物が絶滅した。中学生ごろまでは、足利周辺の山で、ウチョウランやレンゲショウマ、クマガイソウなど見ることができたが、今ではそれは叶わない。わずかに残された、カタクリやセツブンソウ、アズマイチゲなどの群生地に人が集まるのは当然だ。誰が見ても美しいものは美しいのだから・・・。

 しかし、くれぐれも、撮影に夢中になり過ぎて、目的の花以外にも植物のあることを忘れないで欲しい。足元に、次に咲く花の芽や、つぼみを持った目立たない草だって生えている。ある方から次のような俳句を紹介された。・・・「カメラ構えて彼は菫(すみれ)を踏んでいる」(池田澄子)

                2006年 2月26日掲載



春を告げるセツブンソウ




あの女性はキツネの化身?

 夕暮れにはまだ時間はあるが、山際のその湿地は、既に日もかげって寒々としていた。湿地と言っても、以前は田んぼか畑だった所に、何らかの理由で水が貯まってできたわずかな土地なのである。ここには、ヒメアカネやマユタテアカネと呼ばれるトンボも生息していて、昨年は九月末に見ることができた。

 この辺は昔、養蚕農家が多かったのか、大きく乱れ育った桑の木が怪しく湿地を覆っている。五月末に立ち寄った際には、足利ではドドメと呼ばれる熟した桑の実が、あちこち鈴なりで、それを摘んで帰りブルーベリーに似た色のジャムを作った。

 湿地の所々に、氷が張っている。表面のひび割れ模様が斬新!。これを撮ってやろうともくろんだ。道路からでは構図が悪い。こわごわと湿地に足を入れたら、意外や表面が固く凍っていて入っていける。しめしめ、のんびり撮影できるぞ・・・!そう思ったとたん、「何をしているのですか?」と、声をかけられ驚いた。

 付近に人家はあるがだいぶ離れているし、こんな日陰の寂しい道を女性が一人で歩いてくることが不思議だった。私は撮影をやめ話し出した。こんな時はなぜか冗舌になる。その女性は、よそ者の私を警戒している風でもなかった。

 「おばさん」・・・とは何歳ぐらいからそう呼ぶのだろうか?お互いおじさんとおばさんであれ、男女二人が立ち話するには不似合いな場所で会話は続いた。

 帰ってきた晩、湿地での情景が布団の中で思い出された。夢の中だったか定かではないが、キツネが登場したのである。キタキツネは見たことあるが、もう何十年もの間、ホンドギツネには会っていない。昔、中学生だった頃、地元のハイキングコースの稜線(りょうせん)で、死んだホンドギツネを見たことが最初で最後だった。

 あの女性は、実はキツネの化身だったのでは?…そんな妄想が広がった。キツネはチャーミングという独特の獲物の取り方をするが、昨日のおばさんはチャーミングだった?

 野山に出かけ人気(ひとけ)のない所で人間に会うことぐらい怖いものはない。相手もそう思っているだろうが・・・・。

                   2006年 2月5日掲載



ひび割れた氷の造形




過ぎ去った風景

 コナラを中心とした故郷の雑木林や山肌の木々の葉は、冬が訪れた後も遅くまでその葉を落とさなかった。しかし、年末の大寒波による空っ風で、ほとんどの葉は雪雲が流れる青空に舞いあがり、役割を果たした後の安堵(あんど)を抱き、つかの間の旅を楽しんだ。

 林床に陽光の届くこの時期、寒さに首をすくめ、積もった落ち葉を踏みしめながら、何を探すでもなく歩いて行く。こんな時は、視界に写る現象以外にも思いが広がり、過ぎ去った季節をも甦(よみがえ)らせる。

 美しい輝く翅(はね)を持つオオミドリシジミは、夏の間、コナラの細い枝に一つずつ丁寧に卵を産み付け、その使命を果たした。昨年、友人の小学校の先生が生徒と育てあげ、歓声とともに放蝶(ちょう)したオオムラサキたちは、無事相手を見つけ交尾産卵しただろうか?日陰に立つエノキの幹の下、積もった葉裏に小さな幼虫が今は眠っているはずだ。

 カラカラと梢(こずえ)のこすれあう音の中、歩を進めれば、カラ類のせわしい鳴き声が聞こえ出し、集団がひとしきり私を取り囲む。シジュウガラ・エナガ・ヤマガラ・・・。やがて、その声も遠ざかり私はまた歩き出す。

 地面すれすれをフユシャクが飛び交っている。ヤママユの繭が足元に落ちている。
北風に乗って流れる雲が見上げる空を覆いつくし、風花でも降るような空模様。小高い山の頂上に続く道をたどってはいるが、そこに立つことが目的ではなかった。

 登る際にはさほど感じなかったが、下り始めてけっこう急な道だったことに気付いた。山道の落ち葉は滑りやすい。こんな低い山でも慎重になるのは、やはり歳のせいなのだろう。

 私の過去の山行は華やかだった。ガイドブックに載せられた白黒の写真に、遥(はる)かな思いを抱き憧(あこが)れ、あちこち訪ね歩いた。お花畑・雪渓・雲海・岩稜(りょう)、そしてアルペングリューエンに染まる山肌、仲間たちとの語らい・・・。

 いつごろからか、重いキスリングを担いでの山行がたたったのか、歩き出してしばらくすると膝(ひざ)関節が痛みだし、ビッコ引き引きの苦しい登山となってしまった。もう、あの峰々に立つことは出来ないだろうと思ったとき、言いようのない寂しさに襲われた。

 時を経て今、私は身近な自然と接している。それでもまだ、冬枯れの故郷の山道をたどりながら、心の中では、過去の風景や季節をも眺めている。

                2006年 1月15日掲載



クスサンの繭(スカシダワラと呼ばれる)




わが家のトップニュース

いよいよ、今年も残り少なくなった。この時期、話題に上るのが今年の十大ニュース。我が家の十大ニュースのトップは、紛れもなくこれから書こうとすることだ。

 それはある一通のメールから始まった。「HPの写真を使わせてください」・・・こういう話は時々あり、一度有償で五枚ばかり使いたいというので、信用してポジフイルムを渡してしまった。ところが、いつになってもその後、音沙汰(おとさた)がない。数ヶ月かけて観察、撮影したカワセミが翅(はね)を広げて巣穴に餌を運ぶ貴重な一枚も戻ってこなかった。

 そんな訳で、はじめは警戒した。しかし、メールのやりとりをしているうちに、使用目的を知り、私は驚いた。元赤い鳥(代表曲:翼をください)や元ハイファイセットのボーカル、山本潤子さんのソロアルバムのCDジャケットに使用するとのことだった。
 
 竹田の子守唄、赤い花白い花、中央フリーウエイー、フィーリングなどなど。特に、翼を下さいは、今では教科書に載っているという。PTAのコーラスで歌ったこともある。われわれ、五十代前後の人間なら、過ぎ去った青春時代を思い起こすに違いない。

 私は、一つだけ条件をつけた。どのように使われるのか知りたい・・・と。やがて発売前にサンプルCDが送られてきた。

 これは自慢できるぞ!と、友人たちにメールを送った。返事の中の一通に、数日後の十一月二十日、隣町の群馬県桐生市でコンサートがあると知った。担当のデザイナーさんに、「偶然にも撮影場所と同じ渡良瀬川の流れる隣町でコンサートとは、妙なご縁ですねえ!」・・・とメ―ルを送ったら、うれしことに妻と二人を招待して下さった。

 懐かしい曲や潤子さんの透明感のある澄んだ歌声に、しばし夢見心地。お礼に持っていった私の額入り写真を会社の方に託そうとしたら、「直接お会いして渡したら」…と粋な計らい。終了後お会いし、一緒に写真まで撮らせていただいた。感激!

 それから三日後、自筆の絵はがきが届いた。今度のアルバムは何気ない日常を優しく、温かく、また楽しく歌ったものが多い。素顔の潤子さんも、歌声のようにどこまでも澄んだお人柄・・・そう思えた。

                  2005年 12月18日掲載



CDジャケットに使われた 渡良瀬川土手夕暮れ




同級生よ、またいつか・・・

「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢(あ)はむとぞ思ふ」・・・これは私の好きな百人一首の中の崇徳院(すとくいん)の歌だ。別れても行く末では、また逢おうという恋の歌だ。

 今から、三十年以上前、私が二十代のころ、気のあった仲間、兄弟、そのまた友達
など、五十〜六十人も集め、それほど広くはないわが家の部屋を改造して新年会や、お遊びの会の会場とした。準備は一ヶ月も前から行い、葦(よし)を刈ってきてヨシズを作ったり、コースターやマッチのレッテル、また、うどん屋の看板や、洋風サロンのメニューなど、すべて手作りで用意した。

 一部屋に家財一切を押しこめ、他の部屋にはさまざまなセットが施された。洗面所・風呂場がうどん屋に、応接間はカジノと化した。タイヤとホイールでルーレットを作り、ミラーボールは、鏡を砕き、ザルに貼りつけ回転させ光を当て反射させた。人数が集まるといろいろな特技やアイデアを持った者もいて、カクテル作りがうまい人、広告、デザイン屋から芸術家の卵まで何でもそろっていた。

 そんな遊びの中心となったのは中学時代の同級生だった。やがて、彼らの多くが、結婚や就職で遠ざかり、愉快な恒例のお遊びも消滅し、皆それぞれの生活の中に埋没し膨大な時間だけが過ぎ去った。

 2000年…ミレニアム。情熱的な一人の同級生が、九クラスあった学年全体の同窓会を開こうと計画を立て実行に移した。一人で悩んでいる姿を見て、私も一肌脱ぐことにした。こうして「足ニ中 ミレニアム同窓会」は万全な準備のもと開催され、百数十名の参加を得て盛大に行われた。

 あれから五年、今月の六日に「第二回 足ニ中 学年同窓会」が行われた。参加者は前回の半数足らずだった。クラスの壁を乗り越え、五十五歳になったおじさんやおばさんたちが、ほほえましくマイムマイムやオクラホマミキュサーなどホークダンスを踊った。心の中で思いつづけていた人と再会し、およそ四十年ぶりに手をつなぎ、心もまた踊った人もいたことだろう。

 お互い別れてもまたいつの日か逢おう・・・それまでみんな元気で!

                 2005年 11月27日掲載



晩秋の空




ナメコの成長

春は山菜取り、秋はキノコ狩り・・・私の実用的な趣味だったが、最近はあまり両方とも御無沙汰(ごぶさた)だ。この辺の里山では、十月初旬がキノコ狩りの時期だったが、今年は一度も出かけなかった。前橋の友人は定年退職後、今まで以上に熱が入り、キノコ情報をメールや電話で知らせてくる。ブナハリタケ、ムキタケなどブナの原生林に生えるキノコのお話には、昔、たくさん採ったころの感動が甦りヤキモチが焼ける!。

 行かなくなった理由はいろいろあるが、まず、自分の知っているポイント(シロと呼ばれる)のいくつかが、伐採や、自然破壊などで消滅してしまったこと。それから、一番足しげく通った裏山が、松食い虫での影響で倒木があちこち行く手をさえぎり、荒れてしまったことなども原因だ。

 秋にキノコを食べなくては何か物足りない。とはいえ、年中出回っている、栽培品のシイタケやシメジ、最近良く口にするエリンギなどでは季節感は味わえない。そんな私の心を察してか、女房殿がマツタケを一本だけ買ってきた。最初貼られた価格から、更に値引きされ数百円台になったので、思いきったようだ。台所で、小さなマツタケを丁寧に料理する姿を見て、「庶民はこの程度で満足せねばならない」・・・なんて独り言を漏らす。それにしても久しぶり・・・・!マツタケご飯やマツタケスープなど、期待を込めて食したが、どうもイマイチ香りが良くない。外国産だろうし、値段もお安いのだから仕方ないのだろう、とあきらめた。

 今、一番の楽しみは、我が家の庭で、数年前からナメコの原木栽培をしているホダ木に、今年もナメコが生えてくれるだろうか?ということ。だいぶ、ホダ木も古くなってきたので、もう限界かもしれないが・・・。

 昨年の今ごろは、腎臓がんの手術を数日後に控えて、心穏やかではなかった。そんな中、「ナメコがたくさん出てきた!」、というニュースが飛び込んできた。家に帰って、ツブツブのナメコの傘が日に日に大きくなっていく姿が見たいなあ・・・とつくづく思った。

 豊かな日本の四季。それぞれの季節を感じさせてくれる野の花や鳥や蝶など、当たり前に見られることが大きな幸せなのだと思い知った。一年飛ばしてしまったナメコの成長する姿・・・今年は家の庭で見られそうだ。

                 2005年 11月6日掲載



我が家のナメコ




見守ることが大切

最近、ニートという言葉を、新聞やテレビなどで目にすることが多くなった。

 調べてみたら、ニートとは、十五〜三十四歳、学生でもなく就業者でもなく、求職「活動」もしておらず、主婦(主夫)でもない、という者をさす・・・と書かれている。フリーターとは就職する意思の有無で区別している。バブル崩壊後の就職難も影響しているのだろうが、本質はもっと違う所にあると思う。

 私は教育者ではないので自然から得た知識や経験を元に考えた。低学年のうちは「健康でさえあれば・・・」なんて思っていた親たちも、次第に教育に熱が入り、「このままでは競争に負けてしまう!」と危機感に襲われる。今、足利の道路を走ると、学習塾が競い合うように道の左右に立っている。自分の特性を自覚し人生の方向性を予感する中学生ぐらいまでは、せめて、クラブ活動や好きな事をさせてあげたい。

 六月中旬から七月の高原や牧場に行くとオレンジ色の濃いレンゲツツジが美しい。しかし、牧場の牛たちはレンゲツツジには毒があることを知っているので食べはしない。

 私は以前から「放牧教育」が良いと考えている。自分の五感を働かせ、食べられる草を自ら探す。親がレールを敷き、答えを用意し、一方的に何でも与えるのはいけない。

 狭く区切った長大な鶏舎で、昼夜餌を与え効率よく育て、より多く卵を産むことが最良・・・・という育て方は、どこか今の教育に似ている。社会全般が効率最優先、寄り道は無駄だ・・・というかのように!

 昔、雑魚釣りをした溜(た)め池は危ないからといってさくがされた。メダカやカエルのいた水田脇の小川にはU字溝が造られてしまった。草野球をした空き地はなくなった。野に出て遊べ!と言っても子どもは少ないし、良い環境はなかなか見当たらない。

 だからといって、やることがなくなったわけではない。子ども達は遊びを見つけるものだ。あれこれ与えず、見守ることが大切だ。工夫をして遊べば、棒一本、葉っぱの一つでも楽しめる。また、学校の点数に関係ないことを無駄と言ってはいけない。

 早く亡くなった父とはほとんど会話もできなかったが、母は、私が何をやっても反対せず見守ってくれた。ありがたいことだった・・・とつくづく思う。

                  2005年 10月16日掲載



 放牧中の牛




秋蝶集める彼岸花が好き

 真夏の間、涼しい高原に出かけていた私も、アキアカネのように秋風と共に下界に下りてくる。里山周辺への巡回が再び始まった。佐野市下彦間周辺に行くと、早咲きのヒガンバナが三本咲いていた。

 仲秋を代表するヒガンバナは目立つ花だ。呼び名もさまざまで、あるHPには「日本の植物の中では、最も別名の多いのが、この彼岸花です。文字のちょっとした変化も含めれば、1090の呼び名があり・・・」、とあった。それほど生活に密着した花なのだ。

 曼珠沙華(マンジュシャゲ)という呼び名は有名だが、シビトバナ、ユウレイバナなどはちょっと恐い。有毒植物でもあり、球根にはアルカロイドと呼ばれる神経毒(リコリン・セキサニン・ホモリコリン)が含まれている。

 毎年、彼岸の中日(秋分の日)前から咲き始める。私はこの花が好きだ。黄金色に実った稲穂を背景にヒガンバナが田んぼの畦道を真っ赤に染める。収獲を目の前にした祝福のように・・・。

 好きな理由がもう一つ。夏を過ぎると蝶の種類が減り、なかなか良い場面が得られない。鮮やかなヒガンバナを訪れるアゲハチョウの仲間を撮影するのが、毎年の恒例行事となっている。

 咲き始めると、ヒガンバナの咲く小道を行ったり来たり探しまわる。アゲハ、キアゲハ、クロアゲハ、オナガアゲハ。カラスアゲハやミヤマカラスアゲハに出会えば心が踊る。また、温暖化の影響?で最近数を増しつつある暖地性の蝶、モンキアゲハなど、いろいろな種類がやって来る。

 足利の樺崎には、すばらしい群生地がある。緩やかな曲線の畦道に沿って小川が流れている。その川面に秋空の青と、真紅を映して、林立して咲き誇るヒガンバナの姿は、それは見事。本当は教えたくないのだけれど、有毒植物だし、他の山野草のように盗掘する人はいないだろうから、まあいいか!「撮るのは写真だけ、残すのは足跡だけ!」

 そうそう、ヒガンバナはハミズハナミズ(葉見ず花見ず)とも呼ばれているのがおもしろい。花が咲き終わって、冬に向っているのに地面からたくさんの葉が出てくるのだから変わっている。皆さんヒガンバナの葉を知っていますか?

                  2005年 9月25日掲載



ヒガンバナを訪れたモンキアゲハ




ある登山者との出会い

 若いころ、(今から三十年以上前)、あちこちの山に登っていた。山で出会った多くの人達とその後交流が続き、今も連絡を取り合っている友人が何人かいる。

 山に登るからといって皆同じような価値観を持っているとは限らないが、山では気楽に声を掛けられるのはなぜだろう?下界ですれ違った人にいきなり声を掛ければ、たいがい変な人間だと思われ敬遠されるだろう。日常の煩わしさから離れ、自分にとって身も心も開放できる最高の舞台に立った時、人間はやさしくなれるのだと思う。

 もうニ年以上たったが、私はいつものようにカメラを持ってチョウの撮影に足尾町まで出掛けた。ここには庚申山という地味ではあるが味わい深い山がある。中学生だったころから登りだし、今までに二十回ぐらい登っている。と言っても最後に登ってからもう二十年ぐらい登っていないが・・・。

 その日、銀山平から切幹を右折し原向の駅まで続く長い道を歩いている一人の登山者に出会った。あの頃は石ころだらけの道で、さびれた廃坑の町と言う独特の雰囲気が漂っていたが、今は舗装され明るい道に変身した。

 私は車を近づけその登山者に声をかけた。一人長い道のりを歩く、私と似たような年配のその方に、昔の私を投影し懐かしく思えたからに違いない。人気のある山でぞろぞろ登山者が歩いていたのでは声は掛けなかっただろう。

 どうせ一人で山道を車で下るのだから、「乗りませんか?」と勧めると、快く受け入れてくれた。聞けば滋賀県の方から、はるばる百名山の一つ、皇海山に登っての下山途中だったと言う。「東京に出てから帰るのなら足利までいかがですか?」そして、いろいろな話をしながら二時間ばかりの道中を共にした。

 私が出掛けた目的であるHP用のチョウの写真を撮りに来たことなど話し、名刺を差し上げた。帰って数日後お礼のメールが届いた。

 そして、あれからまた月日が流れた。今年、八月の中旬頃その方からメールが届いた。うれしいことに、そこにはチョウの写真が二枚添付されていて、私にその名前を尋ねてきたのである。「田村さんの影響で私も蝶の写真を撮るようになりました。」と書かれていた。お世辞にも上手な写真ではなかったが、一度きり、それもたった二時間ばかりの出会いだったが、何か通じるものがあったのだろうと、ひとり心の中でほほ笑んだ。

                 2005年 9月4日掲載



夏の日・入道雲




暑さ寒さも生きてる幸せ!

 暦の上では立秋を過ぎたが暑い日が続いている。こう暑くては私のライフワークである里山の巡回も回数が減ってくる。花にしても蝶(ちょう)にしても、早春から初夏ぐらいまでが種類も多く、咲く花たちも可憐(かれん)で、いたわりながら撮影してあげる、そんな気分になる。

 ところが、こう暑い中で豪快に咲かれると撮影するのも、撮ってやるかあ!と、やや手抜き。オオムラサキやクワガタなど撮影しょうと雑木林に入れば、草いきれの中、蚊の大群に襲われる。

 長い年月を土の中で木の根から養分を吸って育ち、地上に出て、晴れの舞台で歌い続ける蝉(せみ)たちの合唱も、美しいハーモニーがあるわけではなく大声を張り上げているだけのようで、なんだか暑苦しく音楽観賞の気分にはなれない。(ヒグラシは別)

 山々の木々の葉の色にしても、新緑や紅葉時のように繊細な色合いではなく、ただ一面似たような濃い緑一色。

 さてここまで書いて、読み返せば文句ばっかり!彼らには彼らなりの事情があり、やがて来る冬に備え、充分葉から栄養を吸収し、成長し、花芽を形成したり、雌を確保するために必死になって鳴き続けているのである。別に人間に嫌がらせをしているわけではない。

 そうなると、夏は涼しい高原だ!とばかりに、私もしばし里山から離れ、白樺(しらかば)林や草原に爽(さわ)やかな風が吹きぬける、日光や信州などの山々に出かける事が多くなる。でも、高山植物や蝶の最盛期は七月中までで、八月も中旬となると秋の気配が色濃くなってくる。ススキの穂が風に揺れ、ワレモコウなど、秋だなあ・・・という植物が目にとまる。

 やがて涼風は、山々を少しずつ駆け下り、私の好きな里山にも爽やかな季節が訪れる。・・・・だいぶ先走ったお話になったが、その前に残暑という、これまた辛い時期が待っている。

 人間勝手なもので、寒い冬には、早く春や夏がくればいいなあ!と思い、夏真っ盛りには、秋や冬に憧れてしまう。毎年、毎日、寒いだの暑いだの言って日々が送れることが生きてる証拠で、幸せなのだろう。暑くても我慢! 


                  2005年 8月14日掲載



夏の花、クサギに集まるモンキアゲハ




羽化を待つ

 子ども達の待ちに待った夏休みがやってきた。今でもあるのかどうだか知らないが、夏休みといえば宿題の自由研究。私は小学生のころ昆虫採集に夢中になり、四十五年以上経た今も採集はしないが蝶の生態写真や野の花などを撮っている。

 そんな私には二人の女の子がいるが、彼女らが小学生のころ、夏休みの自由研究といえば、親の趣味である昆虫や植物がらみばかりだった。自信をもって教えられるものがそれくらいしかなかったから、ほとんど親の研究のようなものだった。

 長女が小学六年生の時、庭のミカンにクロアゲハが産卵に訪れたのを見て、その日から羽化までの過程を観察しはじめた。卵の色が変わり、孵(ふ)化し、ミカンの葉を食べる。サナギになるまでに「幼虫の食べる葉の量」をテーマに、幼虫の長さを測ったり、絵に描いたり、育 つ過程をカメラにも収めた。 七月十八日産卵・・・八月二十八日羽化。ほとんど夏休み中かかった。

 幼虫は四日か五日たつと脱皮をする。五回ほどそれを繰り返し、八月十六日サナギとなった。いよいよ後は、羽化の瞬間を待つばかり。サナギは羽化が近付くと透けてきて中の文様が見えてくる。しかし、一時間後に羽化するのか、十時間後に羽化するのかチョウに聞いてみないとわからない?

 せっかくこれまで育てたのだから、最後の羽化の瞬間を見せなければと気が気ではない。明朝までには羽化するだろうと、前の晩から見る準備をして、今か今かと待ったが一向に気配もない。夜もふけ、子供は眠くなってくる。私は羽化を見なくては価値がないと、子供が寝ないようにハッパをかける。揚げ句の果て、ソファーに毛布を持ち込んで、徹夜の態勢を整えた。翌日は、夏休みも終わり、学校へ登校する日だ。是が非でも夜明けまでには!・・・そして、朝がきたが、とうとう羽化せず親子ともども疲れ果てた。子供は七時三十分に家を出た。

 仕方なく、お父さんが後はひきうけ、撮影しておくから心配なく、と、子供を学校に送り出して十七分五十秒後の、千九百九十二年八月二十八日 午前七時四十七分五十秒に羽化が始まった。ああ残念!もう少し早ければ・・・・ 


                 2005年 7月24日掲載



羽化直後のクロアゲハ




残ってほしいもの

 梅雨とはいえ、地域によっては雨が降らず、農作物に深刻な被害が出ていると聞く。私のように、撮影が趣味な人間にとって、降らないことはありがたいことなのだが、晴れ雨のバランスがうまくいかないと困る。どうも最近の気象は極端なようだ。

 さて、私の撮影対象は蝶が中心で、山野草や鳥なども撮影する。足繁く通う私のフィールドは、地元足利市の山間部ほか、今まで田沼町だったが、町村合併で新しく佐野市になった下彦間や飛駒周辺だ。そこは里山と呼ばれ、遠くなりつつある昭和の風景が、今だ垣間見られ心安らぐところ。

 子どものころ、わが家を含め、あたりには萱葺きの農家が点在し、車がやっと一台通れるほどのジャリ道が田んぼのまん中を貫いていた。山際には細い道が、手入れの行き届いた畑地に隣接してあり、ワラビが採れ、ワレモコウやリンドウなどが咲いていた。今はもう幻になってしまった私の故郷の匂いが、訪れるそれらの土地には今だ漂っている。

 腰の曲がったお年寄りが、手押し車を握って歩いている。黄土色した壁土の剥げ落ちた物置には、長い梯子や稲を干すための木や竹の棒が積んである。昔、タバコを乾燥した土蔵は、厚い白壁が往時の繁栄を物語っている。

 今ごろは、わずかに残った道端のクヌギの木に国蝶オオムラサキがやって来る。雄の翅(はね)の輝きは、子供のころの小さな胸をときめかせてくれるに余りあった。切通しのある丘のクヌギの大木を、学校帰りにそーっと覗きこむのが楽しみだったが、今は新しく佐野市になった秘密?のポイントまで行かなければ見られない。

 今、飛駒川の河川改修が大規模に行なわれている。狭かった川幅が何倍にも広がり土手を覆っていた真竹も切り払われ明るい川に変身した。時間が流れれば変化するのはやむをえないが、変わらずに残っていてほしいものはたくさんある。

 あのころ出会った蝶や花たちを、今も変わらず子どものように追いかけ、行くたびに、古びた建物などの存在を確認しながら、私の撮影行はこれからも続くのだろう。


                  2005年 7月3日掲載



懐かしい裸電球




チョウを呼ぶ庭

皆さんは、バタフライガーデンと言う言葉を聞いたことがあるだろうか?「チョウを呼ぶ庭」のことをこう呼ぶ。より理解するためにはチョウの生態を知る必要がある。

 お天気の良い日、飛んでいるチョウにも、それぞれ目的があって、目覚めてまずは腹ごしらえ。花や樹液、などへ出かける。その後、雄はひたすら雌を探して東奔西走や縄張り確保。雌はたいがい産まれてすぐ雄に見つかって交尾となる。交尾済みの雌は、産卵する場所(草や木)を求めてこれまたひたすら探し続ける。(その間にも花などには訪れるが。)

 チョウが食べる草を「食草」、木の葉を食べる場合は「食樹」と呼ぶ。チョウを庭に呼ぶには、チョウの幼虫が食べる草木を植えておけば産卵にやって来る。皆さんが良く知っているのは、サンショウにつくアゲハチョウ、キャベツにつくモンシロチョウなどだろう。

 つまり、アゲハチョウとモンシロチョウを庭で見たかったら、日陰にサンショウを植え、日向にキャベツを植えれば見られることになる。しかし、ここで問題が生じる。サンショウやキャベツを食べて育ったチョウを庭に留めておかないと、観賞できず、どこかに飛んでいってしまう。そのためには、吸みつ植物を植えれば良い。花のみつ吸いたさにやって来る、というわけだ。花もチョウに来てもらわないと結実できないから真剣だ。

 幼虫嫌いな方は、チョウが好む花だけでも植えておけば、どこかで羽化したチョウがやって来てくれる。蝶の好む花は、アブラナ、ツツジ、ノアザミ、サンジャクバーベナー、ブットレア、ヒャクニチソウなど。(野山でチョウが吸蜜している花を覚えてくれば、種類は増す)

 わが家では数十種の食草・食樹が植えられているので、一年中、さまざまなチョウが楽しめる。チョウを呼ぶための庭づくりをする人を「バタフライ・ガーデナー」と呼ぶそうだが、わが家はまさにそれ!

 キハダ、カラスザンショウ、アワブキ、ハギ、ミカン、スイカズラ、エノキなどなど、数え上げればきりがない。

 今、日本中でガーデニングがブームだが、チョウの好みそうな花でも植えれば、自然が少し見えてくるでしょう。


                 2005年 6月12日掲載



ヒャクニチソウで吸みつするキアゲハ




カワセミ撮った!!

 もうだいぶ前の話になるが、いつものように、首からカメラをぶら下げ渡良瀬川の河川敷を歩いていると、左側に位置する小河川から、突然カワセミが一直線に飛び立った。

 当時、その川は、両側とも土がむき出しになっていて、カワセミの巣作りに適したところだった。桜が咲き、新緑が日に日に濃くなる四月の始めは生き物たちの繁殖の季節。私にはピーンときた。巣作りが始まったのだと・・・。

 期待に胸を膨らませ、川に駆け降り、土の壁面を探すと、掘り始めたばかりのカワセミの丸い巣穴(まだ深さ一センチ足らず)が見つかった。カワセミの巣はオーバーハングぎみの水辺の土の崖に、クチバシを使い土を掘り出して作る。長さは五十センチから一メートル。

 最近では、護岸工事の影響で、土の露出した子育てに適した崖が少なくなったので、川辺からけっこう離れた山の中に作る場合もあると言う。

 私はそれから何回もその場所を訪れて観察を重ねた。次第に深くなる巣穴を見ては、このカワセミを撮ってやろうと考えた。

 やがて五月になり、いつものように見まわりに行くと二羽のカワセミに出会った。抱卵の交代時と思われた。抱卵は十九〜二十一日とある。もしかしたらもうふ化していて給餌の交代だったかもしれない。

 野鳥に詳しい知り合いの医師とのお話を参考に考えたことは、卵がふ化し、親鳥が頻繁に餌運びを始める、子育ての頃に撮影すればうまく行く、という結論だった。

 早速迷彩色の観察用テントを購入し、対岸の草むらに設置した。そこから十数メートルほど長いコードを引き、その先にカメラを据え付ける。いわゆるリモコン方式。カメラの先二メートルに一本の棒がある、ピントは棒の上の空間。

 テントのすき間から双眼鏡でのぞくと、餌をくわえたカワセミが棒の先に止まる。しめしめ、こちらの狙いどおり!カシャ カシャ カシャ・・・。

 こうして、美しい色彩のカワセミを観賞し、また様々なポーズのカワセミを心行くまで撮影する事ができた。いまから十四年前の五月二十日撮影とノートに書かれていた。


                    2005年 5月22日掲載



餌をくわえるカワセミ




消えゆく自然

 遅れてやって来た春は、一気に桜の花を咲かせた。花の散ったあとは、遅れを取り戻すかのように木々の芽吹きがいっせいに始まり、この間、周辺の里山では、カタクリ、アズマイチゲ、ニリンソウ、イチリンソウ、そしてヤマツツジやトウゴクミツバツツジなど次々と開花し、人々の目を楽しませてくれた。

 確かに、モノトーンで静かな色合いの冬から、全山萌(も)える劇的な変化は、眼を見張るものがあり心にしみる。新緑の中に咲く山桜など息を飲む美しさだ。しかし、遠目には、毎年変わらぬ美しい春の光景に思えるが、町周辺の林道に足を踏み入れてみると凄(すさ)まじいゴミまたゴミなのである。

 最近では、多くの人々が、山野草の可憐(かれん)さを求めて山里を訪れるのに、一方では、同じ人間が林道のあちこちにゴミを不法投棄する。テレビ、冷蔵庫、衣類、車、中には結婚式の写真までもがあたり一面に捨てられ、やりきれない思いにさせられる。

 チョウや花を追いかけて、あちこち走っていると、突然、今まであった木が切り倒されたり、山が大規模に削られ唖然(あぜん)とさせられてしまうこともたびたびある。

 崩された場所には、カタクリやオオウバユリなど群生していた。イボタの木にはウラゴマダラシジミが産卵に訪れていた。そんな私にとって大事な場所が一瞬にして消えてしまった。近くのゴルフ場建設では、広大な観察ポイントの沢筋すべてが、土を盛り上げて山になってしまったこともある。

 足利では今、北関東自動車道の建設が始まっている。インターチェンジあたりに私の通うハンノキ林があった。ここは、初夏の空にキラキラ舞うミドリシジミの棲家なのだ。この場所も工事にかかって数本の木がすでに切られてしまった。

 一本の木や草が、それらに適合したその場所に根ざして以来、どれくらいの年月が経ったのかを思うと、そうたやすく切ったり崩したり出来ないと思うのだが・・・。私のそんなグチなど関係者の耳に入る術(すべ)はなく、また、木や草や生物たちも反論せずに、ただひっそりと失われていく。


                  2005年 5月1日掲載



新緑の中、美しく咲く山桜




国内の木材 有効に

 もうだいぶ前から騒がれているが、今年も杉花粉の季節がやってきた。人と会えば今日の花粉の情況が話題に上がる。「今日はすごく飛んでいる!」と、鼻をすすり、目を腫らしての会話が始まる。

 今から四十年以上前、私が小学生か中学生になったばかりの頃、蝶(ちょう)の採集で近くの里山に出かけると、いたるところで植林が行なわれていた。雑木山は、長い間、薪炭用として生活に必要とされてきたが、燃料革命のおかげで、それらの需要はなくなり雑木山の価値は下がった。わが家にも少しばかりの山林があって、父が雑木を切り倒し杉や桧(ひのき)の植林を行なった。

 その年は、雨が少なく、水を何度も担ぎ上げ、植えたばかりの杉苗に水やりを行なった記憶がある。山の斜面に父と二人腰を下ろし、めずらしく親子の会話が始まった。「この杉が三十年も経(た)てば太くなる。家を建てかえる際にでも使え!」…そんな父も私が高校を卒業した年に他界してしまった。あの時の会話は懐かしい思い出となった。

 植林後、数年間は山仕事をする職人に頼んで、下草刈り、間伐など行なったが、やがて間伐材が建設用の足場などに使われなくなってからは、手をかければかけるほど経費がかさみ、小規模な植林をした人達の杉や桧山は荒れはじめた。

 当時植林は、林野庁が全国的に行なった「拡大造林政策」として奨励された。「みんなで渡れば恐くない」。林業の経験の無い農家の山持ちが、やがて来るだろう建築ブームを当てこんだ、かどうかは定かではないが、こぞって行なったのである。しかし、結果は外国から安価の木材が輸入され、当ては外れた。

 わが家の杉や桧山もご多分に漏れず、荒れ放題だ。造林を国策として行なったのであるから、国内の木材を有効に使用する良い方法を、国はもっと真剣に考えてほしい。

 そんな、国策にのせられ、小規模な植林をした人達の不満をまきちらすかのように、今日も大量の杉花粉が日本の空を覆い尽くす。


                 2005年 4月10日掲載



花粉をまきちらす杉林




春との出会い

 セツブンソウや福寿草の花が春の香りを運んでくると、いよいよ渓は開かれる。山女魚(やまめ)や岩魚(いわな)など渓流魚を求めて、長い冬の間、この日を待ちに待った釣師たちが夜明け前の渓に押し寄せる。

 まだ薄暗い瀬や淵(ふち)を丁寧に探っていくと、ツンと竿先から心地よい感触が手元に伝わってくる。パールマークの美しい今年最初の山女魚だ。その姿を手にとってほほえみながら眺め、再びめぐり来た春を実感する。

 もうだいぶ昔の話だが、私は渓流釣りに凝っていた。深山幽谷に棲(す)む岩魚。人間の生活に身近な山女魚。どちらも魅力的だが山女魚の繊細なアタリには魅せられた。

 県南の渓流はそれほど山深くなく、山女魚釣りが主体だ。渓の両側には民家が点在し、落ちついた里山の風情が展開する。

 春の渓をたどると、両側のこけむす岩に、ハナネコノメやコチャルメルソウなどがひっそりと咲く。カタクリやニリンソウなどの群落に出会えば心が明るくなる。

 出会いは花ばかりではなく、招かざる客もいる。

 その日、私は、上流部に岩魚をねらって一人渓に下りた。大小の瀬が続く心地よいポイントではアタリもなく、やがて堰堤(えんてい)にぶつかった。流れ落ちる水が滝壷を形成し、大物が潜む気配。私は期待に胸を膨らませ静かに糸をたらした。張りつめた空気の中、視点は垂直に下がった糸につけられたオレンジ色の目印に注がれる。しばし時間が流れた。

 ふと背後になにやら気配を感じた。右手に持った竿はそのままにして、首を左うしろに回した。すると突然、黒い物体がガサガサと大きな音をたて、渓の斜面を駆け登るではないか!それは大きな熊だった。荒々しい息づかいが聞こえそうな距離だった。

 昔は近くの渓流でも数が釣れたと聞くが、私が凝っていた二十年ぐらい前でもそう多くは釣れなかった。しかし、自然の中に身を置き、植物や鳥や動物などと接し、森や林から発する健康な空気を吸い、流れる清らかな水に心を洗われる。そんな幸せを持ち帰る事ができることも渓流釣りの大きな楽しみなのである。


                  2005年 3月20日掲載



傍らに咲くニリンソウ




人生変えた雪景色

 私の住む足利市では、あまり雪が降らない。降っても年に数回のみだ。せっかく降ってもすぐ解けてしまう。

 降る場合は、強い冬型の気圧配置の時、赤城山方面から雪雲が流されて降る、美しい呼び名の風花(かざはな)。あるいは春近くなって多い、関東の南海上を通る低気圧の影響で降る、この二つのパターンだ。

 めったに降らないので、今でも降り始めると子供のように心が踊り、積もり具合が気にかかる。日常的な景色をわずかな時間で別世界に変えてしまう雪景色。熱い気持ちで眺めたり撮影したりもする。除雪、雪降ろしなど苦労の多い雪国の方には申し訳ない話だが・・・。

 また、関東平野から北に向って徐々に高度を増す山並みのかなたに、ひときわ抜きん出て白く輝く、日光や足尾の山々の雪をまとった雄姿を眺めることも私の楽しみだ。

 ところが、わが家は三方を山に囲まれているいわゆる谷なので、平地から、連なる山々を見晴らすには、市街地をぬけて南に走らねばならない。中学ニ年生頃まで、渡良瀬川の南側から見えるこの広々とした魅力的な景色を知らなかった。たった数キロほどの距離なのだが、渡良瀬川の南は子供の私にとって外国だった。

 その頃の私は、ハイキングコースのある周囲の山に登らないと雪山は見られないものと思いこんでいた。雪山見たさに何度もコースをたどった。登ってしばらくすると男体山など日光の山々が現れる。一時間以上歩き、剣が峰まで登れば赤城山を見ることが出来る。その端正で雄大な姿にぞっこんひと目ぼれ。

 高校受験の間際になって、先生が新しく出来た高校を見学に連れて行ってくれた。その途中、登りきった切通しの眼前に、突如広がる雪景色の赤城山を見て、当初の志望校からこの学校に変えてしまった。

 毎日赤城山を眺めて通学できたらこんな幸せな事はない!我が家から歩いて五分の高校をやめて、自転車で三十分もかかる高校に変えたのだから、先生もあきれた。

 冬の赤城山が私の人生を変えてしまったとも言える。


                 2005年 2月27日掲載



雪をまとった袈裟丸山




暖炉の魅力

 登山に凝っていた20代の頃、山で知り合った方がはじめた白馬村のペンションを訪ねた。そこで、部屋に設置された重厚な暖炉に出会った。季節が冬でなかったから、薪(まき)を燃やす所は見ることはできなかったが強い印象を受けた。

 それから数年たったある日、急に思い立ちペンションに電話をかけ、暖炉の購入先その他を聞き出した。私も暖炉が欲しくなったのである。

 設置するまで大変だった。置く場所や天井裏など耐火構造にしなくてはならない。
暖炉本体以外にもいろいろかかり、予算を軽くオバーしてしまった。

 ゆらゆらと揺れながら燃える炎を見ていると心地よい。薪のにおいも郷愁を誘う。ところが、エアコンやガスストーブのようにスイッチ一つで暖かくなるわけではなく、準備が大変。

 薪小屋を2箇所作り、チエンソーを購入して薪つくりが始まった。近所の方が所有している山の木を切っても良いと交渉成立。助っ人にベテランおじさん(年配の方)を頼み、いよいよ伐採が始まった。斜面に生えたクヌギやナラの木を切っては下の道路まで引きずりおろす。この繰り返しを2日間やったら体調を壊し寝こんでしまった。ベテランおじさんはマイペースで仕事をこなすのに比べ、私は張り切り過ぎた。

 これに懲りて、山に生えている木をもらうことはやめにした。幸い私の2人の弟たちは造園業を営んでいる。枯れてしまった木や、いらなくなった木を処分してくれ!と頼まれるらしく、結構大量の木が毎年集まる。夏の間せっせと薪作りに励んだ。

 暖炉を燃やすには、まず薪を家の中に運ぶ。火をつける。火の番をする。たまった灰を処分するなど仕事が多い。しかし、そんな仕事があるから楽しいのかもしれない。

 暖炉の前に座り、くゆる煙やゆらぐ炎を見つめながら至福の時間を過ごす。手間のかかった暖かさは心の中まで暖かくする。我が家の一員となった暖炉はそろそろ20年を迎える。


                 2005年 2月6日掲載



わが家の薪小屋




春を待つ「凍蝶」

 昨年暮れのニュースで、ロウバイや梅の花などが例年より三週間も早く咲いたと報じていた。年末の十二月二十九日、撮影仲間に誘われて、佐野市みかも山にある公園を訪れた。雑木を主とした山々は、まとった葉を落としても、こずえの色合いの連なりがとても美しい。風は冷たかったが、下草を丁寧に刈った林床にはやわらかな日差しが届いていた。

 ふと気づくと、なにやら動く気配を感じた。よく探せば一匹のムラサキシジミが、かたわらに咲くスイセンの葉にとまり、ゆっくりと美しいその翅(はね)を広げたではないか!私の観察の中で知る限り、この日が活動するチョウの年内最終確認日となった。

 本来このチョウは成虫で越冬する。同じところに何匹か集まり、集団越冬という形で、じっと春を待つのが普通である。この寒い中活動したことは、ロウバイや梅の花が早く咲き出したのと同じく温暖化の影響なのかも知れない。

 ところで、チョウはどのように冬を越しているのか知っている人は少ないと思う。チョウは完全変態と呼ばれ、卵、幼虫、サナギ、成虫という過程を経る。そして、どの形でも冬を越しているのである。小枝の分岐点に卵で、落ち葉の裏側に幼虫で、軒下にサナギで・・・

 そして、成虫のままで越冬するチョウを「凍蝶」(いてちょう)と呼ぶ。この言葉は数年前まで知らなかった。俳句を読む方から初めて聞いた冬の季語である。

冬の間、どこかでじーっと春を待つのも凍蝶だが、小春日和など、暖かい日に浮かれて飛び出すのも凍蝶と呼ぶ。みかも山のムラサキシジミも、日だまりの温かさを求めて舞い降りたのだろう。

 「凍蝶の己が魂追うて飛ぶ」 (高浜 虚子)。俳句の鑑賞など苦手だが、この句には、冬を越す途中、束の間の暖かい日、たとえ日だまりの中でも飛ぶには小さな凍蝶の命をかけた厳しさが感じられる。

 越冬を試みたすべてのチョウが無事春を迎えられるとは限らない。春目前で命を落とすチョウもある。温暖化とは言え、やはり小さな蝶にとって冬を越すのは命懸け。

 昨年は、暮れに入院、手術と私にとって厳しい年だった。療養中の身には凍蝶と同じく温かい春が待たれる。


                       2005年 1月16日掲載

 

葉陰で春を待つキチョウ




闘病生活に区切り

 九月末頃から、どうも食欲がでない。仕事するにも力がわいてこない。そんな症状が続き、いよいよダメだ・・・というところで、知り合いの医師に病院を紹介してもらい即入院した。
 
 点滴や病人食を食べるうちにやや回復した。ところが、念のためあちこち検査した中にエライものが潜んでいた。「腎臓がん」だという。それもけっこう大きくなっている。
その場で説明されて驚きはしたが、ピーンとこない。どこも痛いわけではないし。

 「どこかがんの治療の出来る病院を探してください。」といわれ、紹介状を持って二ヶ所あたった。応対が親切だった方に決め、ベットが空くのを待った。

 十一月に入ってさっそく入院。手術日を待つ。入院してみて驚いた。当たり前な話ではあるが、がんセンターなので右も左もがん患者ばかり。これから手術の人、手術したばかりの人、ここではこれが日常だ。皆、前向きに生きようとしているので暗さは感じない。

 五階の窓から見渡せば、広い敷地に桜の木、赤松、クヌギなどが植えられている。朝は真っ赤な太陽が赤松の上に顔を出す。手術当初は、痛くて余裕がなく落ち着いて窓から見える風景を観賞する余裕などなかったが、そのうち限られた窓枠の中の自然の変化を楽しむようになった。

 西側の談話室からは、荒船、妙義、浅間山、少し右に目を移動すれば裾野の広い赤城山の雄姿が迫る。ベットの上だけにいるのでは一日があまりにも長すぎる。何度も窓の外の風景を見に出歩いた。

 やがて、桜の木の葉が赤く染まり、風も吹かないのに一枚、また一枚と散り始めた。その次には、あんなに緑濃かったクヌギの葉が茶色くなり、北風にこずえの方から飛ばされ日に日にやせ細っていった。

小さな自然に心を癒されながら、二ヶ月に渡った闘病生活も一応区切りがつき退院の運びとなった。


                         2004年 12月19日掲載



冬枯れの木々




家の中から野鳥観察

 毎年十月二十五日前後になると、家の外から「ヒーヒー」という懐かしい声が聞こえてくる。遠くシベリヤから我が家の庭周辺を目指して飛んできたジョウビタキである。この鳥は縄張りを作るので、春5月頃まで、雌雄どちらかの個体を常に見ることができる。

 また、その頃から庭に手製の餌台を用意する。餌にはヒマワリの種やアワ、ヒエなどをおいて置くとたくさんの野鳥がやってくる。シジュウガラが一番多いがヤマガラやシメなども時々やってくる。スズメは常連でたくさん餌を食べてしまうので困るのだがそれは仕方ない。スズメも来ないようでは他の鳥たちも来ないから・・・・

 ミカンやリンゴを置くとヒヨドリやメジロがやって来る。我が家は三方を山に囲まれた良い条件のところに位置しているが、けっこう町中でもやって来るようだ。家の中から野鳥が見られるのは楽しく心安らぐものだ。皆さんもやってみてはいかが!そうそう、その場合、水場も作ると浅ければ水浴場面や、水を飲む姿も見ることができる。

 ある年、かなりの数のシジュウガラがやって来たので、一つこれを撮影しようと試みた。留まっている姿なら何とか撮れるのだが、飛んでいる姿を撮ろうとするので作戦が必要だ。まず餌台の後ろに二本の杭を打ち、横に棒を渡し、鉄棒のような仕掛けを作った。そうするとやって来るシジュウガラは必ず一度この棒に留まってから餌台に飛び降りる。

 棒から餌台まで降りる間に撮影すれば羽根を広げた面白い写真が撮れるだろうとひそかに期待したのだ。ところが、36枚撮り終えてできた写真を見るとほとんど写っていない。目で飛び降りたのを確認してから、シャッターを押したのでは遅すぎて着地後なのだ。そんなことをフイルム数本分試みたが、これは大失敗に終わった。

 その後、研究を重ね?なんとか飛んでいる姿も時々撮れるようになったが、これはけっこう難しい。餌台にやって来る野鳥を観察するぐらいが楽しむには良いのかも知れない。


                       2004年 10月31日掲載



巣穴に餌を運ぶカワセミ




トンボの楽園

 私の住む足利市から20キロばかり北に飛駒という所がある。町中を流れる飛駒川の支流、寺沢の奥に宝倉(ほうそう)と呼ばれる地が、あたりを山々に囲まれぽっかり穴の空いたような空間に存在している。

 そこの土地の持ち主、T氏は、理想郷を造るべく仲間と荒れ地を開墾して以来十数年、今もロッジ風の建物を廃材その他を利用して造り続けている。いつになっても完成しないその建物や周辺を私は「サクラダファミリア」と呼んでいる。そこには畑もあれば、大きな池も作られた。

 その地に出入りを許されてから数年がたった。蝶やトンボの好きな友人が私を含め3人いて、その池に目をつけた。「ここをトンボの楽園にしよう!」そう考え、まず、トンボのヤゴを食べてしまう池の先住人?コイに立ち退いていただいた。

 沢水が引かれたその池に、様々な植物を植え、いわゆるビオトープを作り上げた。観察を始めて3年の月日が流れた。驚いたことに今日までに36種類ものトンボが確認された。

 また二年前に放したわずか8匹のメダカが増え続け、今では数百匹は泳いでいる。トチカガミその他植え付けた植物も増え続けている。環境さえ整えれば、自然は返ってくるのである。

 今ごろはオオアオイトトンボが、池の縁に植えてあるイボタの枝に産卵に訪れる。不思議なことにこのトンボは、尻尾の先端を木の枝に差し込んで産卵する。それも集団で。その枝には産卵後のコブコブが連なっている。そんな珍しい光景を友人が撮影した。

 卵はいつふ化するのだろうか?木自身の自然治癒力というか回復力があるだろうから、時がたてば産卵の際にできた穴はふさがってしまう。幼虫はふさがらないうちにふ化し水の中にたどり着くのかもしれない。

 こうして宝倉にあるこの池には目を見張るような光景が展開しているのである。わずかな池や湿原を作れば多くの生物達が戻ってくる・・・・休耕田に水を張っておくだけでも効果はあるだろう。失われた自然を取り戻そう!


                         2004年 10月10日掲載



オオアオイトトンボ交尾




私のキノコ採り

猛暑も台風の到来で一段落した。野山では久々の雨にキノコが生え始めた。友人から3種類のキノコ情報が寄せられたので、私も出掛けたついでに生えていそうなところを探したらタマゴタケが見つかった。

 私のような物好きは、一般の人たちが食べないキノコにも関心があり人体実験をしてみる。女房はじめ家族たちは、残念ながら試し食いには付き合ってくれない。タマゴタケは真っ赤で見るからに毒々しい。食べられると言い聞かせてもたいがいの人は敬遠するだろう。いろいろなキノコを手元に5冊ある図鑑で調べ、「これは間違いなく食える!」と独り言を言いながら自分で料理して何十種類も食べた。

 私のキノコ採りは、我が家の裏山が一番多い。だいぶ前だが、数年間、生えているところを(いわゆるシロと呼ばれる)詳細にノートに図解して、そのポイントと収穫年月日を記入した。毎年その時期になると偵察に行く。行けばクリフウセンタケ・ウラベニホテイシメジ、シシタケなど、いつもの場所に生えているのである

 数年前に亡くなった母はキノコ好きで、時期が来ると「そろそろ生えたんじゃない?」とせかされる。キノコ採りは嫌いではないので即反応した。母のいない今は、あまり出掛けなくなった。喜んでくれる人がいないと張り合いがないからかも知れない。また松食い虫等の被害で木が倒れ、山も荒れて、簡単には入れなくなってしまった。

 キノコは種類も多く似たものもたくさんあるので、わからないキノコは絶対食べない方が良い。同じ種類でも大きさも違えば色も違う。生えたばかりの姿と時間がたった姿ではだいぶ違った印象を受ける。図鑑の画像だけでは判断できないものが多い。裏山にも生えているタマゴテングタケやドクツルタケなど食べると間違いなく死亡する。命をかけて食べるほどの物ではない。

 毎年中毒を起こしたと新聞に載るのは、たいがい食菌のウラベニホテイシメジと毒菌のクサウラベニタケ、またシイタケとツキヨタケをまちがえる場合が多いようだ。

 秋の味覚キノコ。買って食べる高いマツタケは確かにおいしいのだろうが、山の木々をかき分け、やっと見つけたその喜びと味は、自己満足かも知れないがマツタケの味にも勝るのである。


                         2004年 9月19日掲載



レースのように美しいキヌガサタケ




渡良瀬川の土手


 今年は梅雨明けが例年より二十日も早かったので、二倍夏があったように感じた。八月に入った頃にはもうぐったり。これからもう一ヶ月あるのかと思うとうんざりだった。それでも日の出も徐々に遅くなり、いよいよ九月を迎える。このあとの残暑が長かったらどうしよう!

 振り返れば、庭で鳴いてたニイニイゼミから暑苦しい鳴き声のアブラゼミ、ミンミンゼミ、せわしいツクツクボウシ・・・そして、早朝や夕方、ヒグラシの涼しそうな、「カナカナカナ・・・」という鳴き声を聞くに至り、秋は必ずやって来るのだと自分自身に言い聞かせる。

 暑さに負けじと、何一つ遮るもののない渡良瀬川の土手を行けば、その斜面にはワレモコウやツリガネニンジンが早くも秋の風情を演じている。エノコログサの穂が風になびき、炎天下を飛び続けすでに破損したホソオチョウがやさしく草原の風に乗る。

 川越しに見渡す緑一色のかなたには、赤城山が淡いシルエットでそびえ、その右には足尾、日光の山々が延々と連なる。この場所は私のお気に入り。夕陽が美しい季節になると、日が沈むまで川面を眺めたり、空を見上げたり、流れる雲を追いかけたりもする。

 土手下の荒れ地には、数十本のエノキの大木に混じって、それはそれは大きくて立派なクヌギの木が天を突いて二本生えている。初夏から夏にかけゴマダラチョウが数十頭も集まるし、キタテハ、カブトムシ、カナブン、クワガタムシなどもたくさんやって来た。暑い夏の日も涼しい木陰を提供してくれた。

 この二本のクヌギの木は、緑多き山々を背負った足利の人々の長い営みを見続けてきた。だいぶ前から河川敷を有効利用? しょうと様々な施設が造られた。ゴルフ場、運動場、駐車場、イベント広場など。まだ何か造られるらしい。新しいものに人々は流れる。でも、本当は、変わらないことが永遠の願いなのではないのか?友情、家族の健康、故郷の自然・・・。

 切り倒されることなく、いつまでもこの場所に残っていてほしい!ここを通るたびに私はそう願ってやまない。


                  2004年 8月29日掲載



夕焼け時 渡良瀬川土手の上の人々




謎の多いアサギマダラ


 アサギマダラという蝶(ちょう)がいる。一度でも出会った方はその美しく優雅な姿に魅せられるはずである。移動する蝶としても有名であり、夏の高原では採集後、鱗粉(りんぷん)のないその透き通るような羽の部分にマーキングを施し、再び放蝶する人達もいる。すると千キロも遠く離れた南の地で再捕獲されることがある。

 あるホームページからの情報では長野から八百八十四キロも離れた屋久島で放蝶後九十日目に確認されたという。春と秋にはこの辺りの里山でも見ることが出来るがその数は少ない。種類によっては発生場所をほとんど動かない蝶もいるのに不思議なことだ。

 八月になると山地の林道沿いやスキー場など開けたところに咲くヒヨドリバナにたくさん集合する。その数はゆうに百頭を超える。毎年仲間を誘って撮影に繰り出すが、運良く発生時期にぶつかると、林道の両わきに咲くヨツバヒヨドリの花に、無数の天女?が飛来し夢のような光景が展開する。

 子供のころ、八ヶ岳、稲子湯からしらびそ小屋を経て本沢温泉へ向かう道で見た時は、ドッキリ、一目惚れ!感動の頂点だった。連れて行ってもらったいとこが採集した一匹を横目でにらんでは何度もため息をついた。これはまさに初恋。

 時を経ても美しいものは美しく、出会えればいつでも心はときめいた。何年か前、そんなアサギマダラがわが家に植えたフジバカマを訪れた。山地では数多くまとまって見られるが、低地で出会うとこれがまた格別の感動なのだ!

 思いを寄せたあの人が、一人我が家を訪ねてくれた・・・なんて勝手に思うのだから、単純である。

 美しく謎の多いアサギマダラ。子供のころの見果てぬ夢を今も思い起こさせてくれる。こんなこと書くと大げさな!と思う方もいるだろうが、会ってみてください。あなたも魅了されること間違いなし。

 私のホームページを見て、「あの時、あの山で見た美しい蝶はアサギマダラと言う名前だったのですね!」と、うれしそうなメールを下さる方がけっこう多いのも、ずーっと心の中で気になっていた謎がとけたからなのだろう。


                         2004年 8月8日掲載



ヒヨドリバナで吸蜜するアサギマダラ




子どもたちの不思議


 朝から蒸し暑く、庭からはセミのにぎやかな声が聞こえる。冷夏あり、猛暑ありと近年の天候は振幅が大きいが、それでも季節はめぐり7月も半ばを過ぎた。いよいよ、子どもたちが待ちに待った夏休みだ。

 ところで、今の子どもたち(特に小学生)は夏休みは何をして過ごしているのだろう?私の子ども時代は、野外に出かけ蝶(ちょう)の採集に明け暮れた。最近はどうも生き物の殺生は評判が悪い。「採集したら殺すんでしょう。かわいそう。・・・残酷!」なんて言われることが多々ある。(今は採集せずに、植物や蝶はじめ昆虫などの生態写真を撮っている。)

 しかし、自然を理解するには、野山に出かけ、虫に刺され蚊に食われたりしながら肌で感じないと理解できないことがある。理科の時間にモンシロチョウだけ教わったのでは蝶と蛾(が)の区別もつかない。貴重種は別にして昆虫採集や植物採集は奨励すべきである、と私は考える。

 大切に育てた虫の死。自分が世話を怠って死なせてしまったときの罪悪感。そんな経験が「命の大切さ」の理解に役立つのだと思う。子どもが簡単に人を殺したり、自殺してしまう今の社会風潮は、そんなところに起因しているのかも知れない。

 自分の話で恐縮だが、今年は足利のある学校で友人と二人でトンボや蝶などに関する講演と、飼育の協力をした。卵や幼虫から育て上げ、立派な成虫となって羽化した時の感激は、生徒ももちろんだが先生達もだいぶ楽しそうに感じられた。クワガタムシやカブトムシの飼育も継続中だ!

 本来、成績(点数)に関係しないことは楽しいのだ。ところが、「そんなことばかりしていると成績が落ちるでしょう!」・・・教育ママ・パパの声が聞こえそうだ。子どものころに興味を持ったことは一生忘れない。そのことが一生の仕事を決めるきっかけになる場合もある。偏差値を上げてから、入れる大学を探すのは何かおかしい・・・私はそう思うのだが・・・。


                        2004年 7月18日掲載

 

川辺の葉にとまるハグロトンボ




生態系豊かなクヌギの木


 日本国の花は桜、鳥はキジ。 栃木県の花はヤシオツツジ、鳥はオオルリ、木はトチノキ。

 それでは皆さんは、国蝶(ちょう)オオムラサキをご存じだろうか。ちょうど6月下旬頃から発生し、8月ごろまで、里山や平地林のコナラやクヌギ林を訪れる。

 その大きな翅(はね)をはばたかせると、小鳥のようにバサバサと羽音が聞こえ、林の中の空間を滑空する姿はまさに国蝶の貫禄十分だ。

 雄の翅表(しひょう)の青紫色は見る角度によってより美しく輝き、子どものころから昆虫少年だった私の心を魅了した。今でも出会うと心がときめく!最近少なくなったと言うが、まだまだ探せば見られるところは残っている。

 オオムラサキは知らなくとも、カブトムシやノコギリクワガタ、ミヤマクワガタなどを探しに林を訪れた方は多いだろう。クヌギの幹から樹液が流れ、その臭(にお)いに誘われてカナブンやオオスズメバチもやってくる。その他、蝶、蛾(が)。カミキリムシなどさまざまな甲虫類。集まる虫を狙ってカエルやカラスまでもやってくる。初夏から夏にかけて、森の大きなクヌギの木は、いつもお客様の絶えない森の高級レストラン。

 最近はオオムラサキを撮影しょうと、一ヶ所に粘っていると、子どもではなく大人がクワガタなどを捕りに来る。わが子や孫のために捕ってやると言う。車ででも出かけない限り、条件の良いクヌギ林は見つからない。子ども同士で歩いて探しに行くなんて、もはや無理なのだろう!

 子どものころから自然に親しむことは良いとは思うが、そんな恵まれた自然の中で育った私たち中年が今の社会を作ったのだ。果たして自然から多くのことを学んだのだろうか?私のお気に入りの里山はゴルフ場と化してしまった。

 私が書くとどうも愚痴が多くなる。一人でも多くの方が、このコラムを読み、「野山に出かけて見ようか!」、そんな気持ちになってくれたら大変うれしい。

 わずかに残った美しく、懐の深い自然に親しみ、失って初めてわかった大切なものを原点に返って考える機会にしてほしい。


                       2004年 6月27日掲載



オオムラサキの求愛




鳥たちと楽しむ


冬の間、野山に出かけると野鳥の姿がよく目についた。雑木林の中では、ヤマガラ、シジュウガラ、ヒガラ、エナガなどが群れを作って飛び回り、山際や道脇の枯れた草原にはホオジロやカシラダカ、カワラヒワなどが落ちた草の実をついばんでいた。

 やがて春が来て木々の芽吹きが始まれば、柔らかな若葉を食べる蝶(ちょう)や蛾(が)の幼虫たちも動きだし、鳥にとって御馳走(ごちそう)豊富な子育ての季節となる。その頃になると木々は葉に覆われ、声はすれども姿は見えず、小鳥を見つけるのは難しくなる。

 そんな季節、野鳥の鳴き声を楽しむのはどうだろう!名前がわからなくても、野山に出かければ繁殖期は縄張りを主張するので、森や林の音楽会場は盛会だ。「聞きなし」といって鳥の鳴き声を人の言葉に代えて聞くのも楽しい。

 良く知られているのがホトトギスの「特許許可局」、フクロウの「五郎助奉公、ぼろきて奉公」、(最近ではフクロウの声を聞くのは難しいが・・・)。ホトトギスは昼夜を問わず声を張り上げてやかましく鳴く。少しは遠慮してもらいたい。ウグイスなど、よそ様の巣に勝手に卵を産み落として育てさせるのだから。

 聞きなしで傑作なのがセンダイムシクイ。林道を走っていて昼間からこの声が聞こえると思わず笑ってしまう。なにしろ、「焼酎一杯グイーッ」とハッキリ聞こえるのだから。コジュケイも大声で「チョットコイ、チョットコイ」とやかましい。行ったらなにかくれるのかな?

 それからサンショウクイというカッコウやホトトギスの仲間がいるが、こちらは「ヒリヒリ、ヒリヒリ」と鳴く。確かに山椒を食べるとヒリヒリする。可愛いルリビタキは「ルリビタキだよ、ルリビタキだよ」と鳴くという。

 ここで私の特技を紹介しよう!サンコウチョウという鳥がいる。クチバシと目のまわりがブルーで、雄は尾が長く、とても魅力的。5月頃(今年は5月11日に初めて聞く)になると東南アジアから渡って来る。その鳴き声は「ツキヒホシ(月日星)、ホイホイホイ」と聞こえる。つまり三つの光で三光鳥ということだ。

 小沢の一番奥の薄暗い林の中や林道沿いの杉林などにいるのだが、この鳥を近くまで呼び寄せることが私には出来る。口笛で鳴き声を真似て同じように吹くと、自分の縄張りに入ってきたよそ者見たさに、必ずやって来る。

 身近な野山に出かければ、いつの季節も楽しみは尽きない。

(注)サンショウクイはスズメ目サンショウクイ科でカッコウやホトトギスの仲間ではありません。当初、「ジュウイチ ジュウイチ」と鳴くホトトギス目ホトトギス科のジュウイチという鳥のことを書こうとしていましたので勘違いしました。新聞を読まれた方にはお詫び申し上げます。


                        2004年 6月6日掲載



コゲラの子育て




 「里山を残すには・・・」


 ゴールデンウイークには、付近の里山に出かけた方も多かったことだろう。家々の庭にはツツジや藤の花などが咲き誇り、田んぼの畦(あぜ)や土手にはハルジオンやアザミも咲きだした。久しぶりに見るレンゲ畑のピンクの絨毯(じゅーたん)に、子供のころ、その花を摘んで遊んだことなどを思い出したに違いない。

 そんな、心地よい五月の日差しの中を、ウスバシロチョウがフワフワと風に流れて飛んで行く。平和で美しい里山の光景である。

 私の住む足利市から少し北に足を運べば、県南の渓流沿いには豊かな自然の残る里山がいまだあちこち点在している。田んぼ、畑、手入れの行き届いた美しい林や森。そこを訪れては、四季折々の美しさを楽しめるのは、みな、農家の方々のおかげである。

 わが家も昔は農家だった。イチゴや桃などを自宅で売る果樹園をしていた。田んぼも少し作っていた。父は高校を卒業した十八歳の時に他界したので、私は農業を父から学んだことはなかった。それでも数年間、母と弟たちと一緒に田んぼ作りを経験した。当時は田植え機など使わずに手で植え込んだ。腰をかがめ長時間田植えをするのはつらい作業だったが、友人や親戚(しんせき)の人達が手伝ってくれ、今となっては楽しく温かい思い出である。

 元農家なので家の周りが広い。草が生える。刈っても刈ってもまた生える。草刈りは大変!人間が手入れをしないと、ものすごい勢いで植物たちの繁殖競争が始まる。果樹園だったところは、今では荒れ果てた山だ。行ってみてもどこがどこやらしばらく考えないとわからない。

 そうした事情が累積するためだろうか、町に近い、もと里山は荒れ果ててきている。枯れた松がいたるところに横たわり、山に入ってもまともに歩けない。燃料に薪(まき)を使わなくなってから、シノダケが生い茂り、低木のツツジなどは日が当たらないので花を咲かすこともできない。人間が数十年耕すのをやめると、美しい里山も消滅する。

 果たして美しい里山を維持してくださる農家の後継者がいるのだろうか?私は訪れるたびにそんなことが気になって仕方がない。


                         2004年 5月16日掲載




少なくなった火の見やぐら




 新緑まぶしい季節


 お気に入りの周回コースに出かけてみれば、いよいよ山々は新緑に萌え、足元にはイチリンソウの群落やニリンソウなど端正な姿をした花々が咲き乱れている。

 田んぼの畦や土手には黄色いキンポウゲ(ウマノアシガタ)や紫の濃いスミレなども彩りを添え、傍らを流れる渓流を覗いてみれば、体力を回復したヤマメたちが人影におびえ素早く走り去った。

 だれしもが待ち望んだ春。いち早く咲くセツブンソウ、人気者のカタクリ、また並木の桜や古木の桜など、多くの人々にその美しさを賞賛される花もあれば、だれに見られることもなくひっそりと咲いて散る花もある。

 数年前、親しい絵描き仲間の女性が、生涯その作品を一度も発表することなく50歳の若さで逝ってしまった。肺の疾患により故郷に戻り、その後乳癌(がん)、甲状腺(せん)腫瘍(しゅよう)など次々と病魔に襲われるも絵を描き続けた。だれとはなしに遺作展を開いてあげようという声があがり、既に20年以上経ってあちこちに散らばった当時の仲間達数十人が、主旨に賛同し実現の運びとなった。2000年4月28日から始まった遺作展はちょうど新緑のまぶしい今の季節・・・。

 ほとんど身寄りのない彼女の作品は、展示後仲間たちが分け合って大事に保管されている。

 古き良き時代、共に学んだ美術研究所の絵描き仲間が集うと、白髪が目立つようになった今でも熱っぽく語り合う。絵が認められ私自身うれしく思う仲間もいるが、果たして霧降高原や尾瀬ヶ原に咲くニッコウキスゲ、ミズバショウ、吉野の桜のように大挙して見物に訪れるような人気作家になれる仲間が何人いるだろうか?

 花でも蝶でもほとんど人知れず生涯を終えるのである。

 瑞々(みずみず)しく明るい春の野山に足を運んだ際、足元に咲く目立たない小さな花を見つけたら、永遠の時空の中で一瞬を確かに生き続けたことにも思いをはせていただきたい。たとえゴルフ場や高速道路建設のため、ことごとく掘り返されても文句も反論もせず幕を閉じるそれらの植物たちは、いじらしくもあり愛(いと)おしくもある。


                        2004年 4月25日掲載




ヒトリシズカ (手違いで新聞には載りませんでした)




 名前あれこれ


 朝ご飯を食べていると裏の方から、ピィーヨ、ピィーヨとヒヨドリがけたたましく鳴いた。もっと美しい声なら聞き惚(ほ)れてやれるのに。持って産まれた鳴き声や姿は何ともしがたい。色が黒いからというだけで嫌われるカラスもなんとなくかわいそう。

 私が座っている姿を見て「なんていい男?」と思ったが、立ったとたんに「ガッカリ!」ーと言ったステキな女性がいた。今から30年も前の話だ。座高は標準(?)だったが足の長さは・・・。

 ところで、誰でも知っているウグイスは新緑のころ、ホーホケキョと里山に春の風情を添えてくれる。でもその姿を良く見た人は少ないだろう。スマートではあるが、あの色はお世辞にも美しいとはいえない。梅の花の蜜(みつ)を吸いに来るメジロだと思っている人も多い。梅にウグイスなんて言葉はあるが、そう簡単に梅の枝にはとまってくれない。

 ママコノシリヌグイやジゴクノカマノフタ、ハキダメギクなんてひどい名前を付けられた植物もあるが、ジュウニヒトエやムラサキシキブ、テイカカズラ(藤原定家からきている)なんていう、なんとなく雅(みやび)な感じを受ける植物もある。本人の責任ではないのに損をしたり、得をしたりさまざまだ。

 姿、形から名前の話になってしまった。この際、もう少し名前シリーズを続けてみよう。植物の名前には動物など生き物の名前をつけたものが多い。列挙(れっきょ)してみれば・・・。

 キツネアザミ・タヌキマメ・ムジナモ・イヌノフグリ・サルナシ・キリンソウ・ネコノメソウ・キジムシロ・ヒヨドリバナ・スズメウリ・・・。まだまだいくらでもある。植物図鑑の索引を見ているだけで楽しい。

 おまけに、私が努力して探した十二支にちなんだ名前を書いてコラムを締めくくろう。子・ネズミモチ、丑・ウシハコベ、寅・トラノオ、卯・ウサギギク、辰・リュウノヒゲ、巳・シロバナヘビイチゴ、午・ウマノスズクサ、未・ヒツジグサ、申・サルトリイバラ、酉・トリアシショウマ、戌・イヌタデ、亥・イノコズチ。 以上でおしまい。


                        2004年 4月4日掲載



烏(からす)の名が付いたカラスウリ




春の妖精たち


 三月も中旬を過ぎると、どこからか暖かな風に乗って妖精たちがやってくる。既に里ではセツブンソウやフクジュソウも咲き終わったが、これからが春爛漫(らんまん)だ! 乾いた大地は一雨ごとに潤いを増し、芽吹きに十分な水分をその土に蓄える。

 まだ木の葉で覆わる前の、林床に明るい光があたる雑木林では、カタクリやアズマイチゲ・ニリンソウといった清楚(せいそ)で可憐(かれん)な花たちがまっさきに咲き誇る。

 これら浅い春に咲き、いち早く結実し、子孫を残した後枯れてしまう花たちを、一般にスプリング・エフェメラル(春の妖精・春のはかない命)と呼んでいる。

 時を同じくしてミヤマセセリ・コツバメといった今春羽化した蝶(ちょう)たちの出番到来でもある。長い冬を無事越冬したキタテハなどもあちこち飛びまわり、そんな花たちを見つけては盛んに蜜(みつ)を吸う。

 日だまりではルリタテハやテングチョウがその翅(はね)を広げ、暖かな光を翅はねいっぱいに受け止め産卵準備の体力づくり。そしていよいよ、鳥たちもカップルを形成し、地鳴きから高らかにさえずり、いっせいに繁殖の季節へと時は流れていく。一方では、渡り鳥たちも、はるかな故郷から聞こえる呼び声に引かれ、順次北帰行を開始する。生命の循環が始まるみずみずしい春。

 この季節、里山を訪れれば心が躍る。何よりも美しいのは雑木林の芽吹きの色。コナラや山桜など、その梢(こずえ)がうっすらと染まり始めると、一時たりとも同じ色はない。朝と夕では大違い。言葉で表現するには多様すぎるパステルカラーのグラデーション。

 この時期を見逃すのはもったいない。このコラムを読んだ方!仕事が忙しくても今年の春は、身近な野山に繰り出して大地の息吹を感じてみては。なんて書いてる私が興奮するぐらいこの季節は美しい。


                       2004年 3月14日掲載



里山の人気者のカタクリ




里山のやすらぎ


 私が子どものころ、家を取り巻く足利の里山は良い遊び場だった。織姫山から行道山に至るハイキングコースのある尾根スジはもちろん、山腹のあらゆるところを歩いたものだ。キノコ採り、ワラビ採り、またヤマユリの花などを探しに。時にはこれといった目的もなく上下左右に歩いて行くと、ホオジロやモズの巣に出会ったり、野ウサギに出会ったりもした。

 近ごろはアウトドアブームなのか、健康志向なのか、多くの中高年の方々が野山に繰り出したり、山野草や野鳥の観察・撮影などをしている姿を見かける。しかし、いつのころからか子どもたちは山に入らなくなった。親が同伴してハイキングには行くけれど、子ども同士で親に行き先も告げず山に入るようなことはまずないだろう。

 未知の世界は恐(こわ)い? そんなことしなくても遊びはたくさんある。お勉強が大事!第一お母さんが心配する。大事な一人息子だものー。
 
 確かに、時代が変わったのかも知れないが、セツブンソウが咲けばニュースになり、カタクリの花が咲けば多くの人が押し寄せる。多分、人間と長い間かかわってきた里山には母親の胎内のような安らぎがあるのだろう。

 大人たちは、高度経済成長から戦後最大の大不況へと、めまぐるしく時代に振り回された。頑張れば幸福になれると信じ、故郷の自然から遠ざかり、ひたすら働いた。物はあふるばかりに家の中にたまった。消費は美徳。使い捨て。産業廃棄物…。中高年が目立つのは、あらためて自分を見つめる中で、野山で過ごした子どものころへの回帰が癒やしの原点だと気がついたのかもしれない。

 冬枯れの雑木林の林床には、落ち葉が積もりやがて分解され多くの生物たちをはぐくむ。キノコ・山菜・果実、また四季折々の心和む風情を私たち人間に与えてくれる恵み多き里山。

 夕暮れ時の空を背景に、小高い故郷の山々の稜(りょう)線をコナラや松の梢(こずえ)がやさしいシルエットを描く。その遠くかなたには、赤城、足尾、日光の山々が雪をまとってひときわ凛々(りり)しく連なる。この永遠の光景を、今の私が見ているように、過去に生きた人々もそれぞれの思いを抱いて眺めたことだろう。私にとって大切な故郷は、身近な山々でありその中で過ごした優しい人々とのかかわりである     


                       2004年 2月22日掲載



地表に落ちたマツボックリ






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