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東京新聞栃木版コラム「四季つれづれ」掲載文U
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☆ 新しいものを上に足していきます。
ムカゴ採りに行った 少し前の本欄でムカゴのお話を読んだ。暇さえあれば近くの林道を走り、魅力的な被写体探しをしている私なので、ついでにムカゴ探しでもしてみようかと思いたった。 黄色く紅葉し始めた細長いハート型の葉を探しながら走るとけっこう見つかる。ところが、いきなりムカゴを採ろうとするとポロポロとこぼれ落ち、手元には何個も残らない。しかし、三つも峠を越えたころには、うまいアイディアが浮かび効率良く収獲出来るようになった。もう十分だろう!と思っても見つかるとまた採りたくなるのだから我ながら欲が深いなーと苦笑い。 佐野市飛駒町の根古屋森林公園付近で採っていると、近所のおじさんから「なに採っているんだい?」と尋ねられた。「ムカゴです」・・・と答えると、「こっちに来てみな!」と案内された。そこには粒ぞろいのムカゴが大量にぶら下がっていた。おまけの大収穫にニコニコ。 収獲を終えて 義父の死 広島の義父が亡くなった。私とは気が合い、お互い若くて元気なころは広島まで出かけるたびに宮島や瀬戸内の小さな島まで日帰りの釣りに出かけた。キスやアイナメ、ベラといった小さな獲物が中心だが一日中楽しむことができた。 義父は出かける際には必ず水彩でスケッチをした。穏やかな港風景など得意だった。詩人でもあり「産ましめんかな」で有名な原爆詩人の故栗原貞子氏とは家族ぐるみの親しい仲だったと聞く。子供は長女が栃木県の私の元へ、妹は滋賀県に嫁いだ。 義父母は思案の末、お寺との関係を絶ち、広島大学医学部に献体の手続きを、もうだいぶ前からしてくれていた。遠く離れている私たちの今後を気遣っての決断だった。 この夏は、義父が入院、義母も体調不良を訴えた。遠く離れた娘二人は仕事を調整しながら連絡を密にとり、何回か広島まで足を運んだ。また私の二人の娘も、それぞれお見舞いに行って、まだ元気なうちに会うことができた。亡くなる一週間前にも、妻は病院を訪ねた。私は行くことができなかったが、前回の「四季つれづれ」に、元気なころを思い出して書いた掲載文のコピーを妻が持参し読んでもらった。 九月二十一日の早朝携帯電話の音で目覚めた。妻は広島に飛んだ。その日、日本列島は大雨。その影響で飛行コースを太平洋側に変更したが何とかたどり着くことができた。 病院に駆けつけた妻だったが、義父はすでに広島大学に運ばれ対面はできなかった。集まったのは義母と妹とたった三人。遺言ということで誰にも伝えず、娘にも会わず、静かにその生涯を閉じた。そのやさしさと思いやりの深さに家族は納得している。 2008年 10月26日掲載落日(永遠) がんと生きる 先日五十八歳の誕生日を迎えた。 父は五十八歳で、また祖父は五十六歳で、いずれも胃がんで亡くなっている。 私が腎臓がんになり全摘出手術をしてから、すでに三年半以上経過した。肺に転移した際、担当医に詳しくたずねたところ、ステージW、五年生存率は限りなくゼロに近いと言われ、田村家長男の三代にわたる因果を複雑な思いで受け止めた。 ところが、もう一年半ほどでおしまいとは思えない経過をたどっている。いまのところ肺以外に転移しないのだ。大きさもあまり変わらず、最近では、ある薬をやめたら意外と体調がよくなり、今まで以上に野山に出かけている。 つい先日も、中学時代の同級生四人で(うち三人は当時生物部員。もう一人はクラスメイトの女性)私の好きな八ヶ岳周辺まで足をのばした。車の中は冗談や駄じゃれが飛び出し(私の担当?)明るくにぎやか。Kちゃん手作りのお弁当を白樺林の中でごちそうになったり、根に猛毒が含まれるが大変美しいヤマトリカブトや、温暖化のせいか二千百二十七メートルの麦草峠付近において、いまだ元気にナンブアザミの花で吸蜜するクジャクチョウなどを撮影して歩いた。 もうすぐ同級生が定年を迎える。二年以上生きのびれば気のおけない仲間や、私と同じ歳の妻ともハイキングや野山の散策などに気兼ねなく出かけられる。なんだかそれも可能に思えてきた。 八・五センチとあまりに大きかった腎臓がんに対し当初は悲観的だったが、今を精いっぱい生きようと考え直し、ここまで生きてきた。是が非でも田村家の記録を更新しなければ・・・! 2008年 9月28日掲載美しいヤマトリカブト 夏が通り過ぎて行く 八月もきょうでおしまい。二人の子どもたちが小さく、私の母や義理の父母が元気だったころは、夏になると主に信州方面に良く出かけた。八ヶ岳・穂高涸沢・乗鞍岳・白馬周辺などへ、ドライブや何日もかけて登山もした。 あのころからだいぶ時が流れた。母はだいぶ前に他界し、現在広島に住む義父は九十歳目前の高齢で脳血管障害を起こし入院中。義母も数年前から闘病中。先日、妻と子供二人がお見舞いに出かけたが、介護問題も含め、今後の対応にめどが立っていない。 今年の夏、久々に自分の運転でのんびり信州を回ってきた。たどる道は、誰もが元気だったころの笑顔を思い起こさせる懐かしい道。硫黄岳や夏沢峠が見渡せる八ヶ岳の林道。入道雲がわき立つ乗鞍高原。諏訪湖の背後に広がる高ボッチ山から見はるかす北アルプスの山並み。あのころに戻れるのなら、いつまでもいつまでも、夏がやって来るたびに私の好きな風景の中、花が咲き蝶の舞う高原や森林を、張り切って案内するのだがそれはもうかなわない。 四季がめぐるように、自分を中心とした人生の季節もすでに夏は過ぎ、絹雲が高く流れ、マツムシソウの紫が似合う季節となった。それはそれで良いし仕方ないことだ。それぞれの季節を、精いっぱい生き抜いてきた亡き母や闘病中の義父母に対し、いくつかの明るい思い出を残せてあげられたことで、私自身は納得する以外ない。 新しいカレンダーは彼女らにめくってもらおう。 2008年 8月31日掲載マツムシソウとスジボソヤマキチョウ 応援団に囲まれて CDジャケットの写真に私の画像を使っていただいたご縁で、元赤い鳥(代表曲「翼をください」)や元ハイファイセットのボーカル山本潤子さんから、ときどきメールをいただく。前回ここに書いた内容・・・癌が縮小ぎみということを知らせたら、「田村さんは気持ちがお強い方だなと思います・・・」。そんなメールをいただいた。その返事に、私はこう書いた。「けっこう気が小さいのです。友人が多いのでみんなに知らせて、応援団に頼ろうとしているだけです・・・」と。 熊本からは古い山の仲間Kさんが、免疫力を高めるというキノコ(ホウロクタケ)を山で採っては乾燥し、途切れることなく送ってくれる。東京中野の百観音明治寺の先代住職Kさん夫妻と親しかったので、あとを継いだ息子さんが治るよう観音様にお願いしてくれている。また、東京の茗荷谷にある林泉寺において、座禅の会の発足当時からの会員である絵の先輩Kさんが、住職が拝むと病気に効果抜群!ということで頼んでくれている。和歌山からはまだお会いしたことのない蝶の友人Nさんが、心休まる手作り作品を送ってきて励ましてくれる。 応援団はまだまだたくさんいて、絵の仲間、蝶の仲間、ネットで知り合った多くの方々、同級生などなど。私にとってこれらの人たちの応援は、抗がん剤やインターフェロンにも勝る良薬?なのである。これだけ多くの方々の応援があるので、そう簡単には負けられない。なんだかこのまま逃げ切れるような気がしてきた(笑) 最近私の「四季つれづれ」の内容が闘病日記みたいなので気になっていたが、こうした応援を受けながら、これからも癌とともに過ごす日々の中で感じたことなどを書いていこうと思っている。 2008年 8月3日掲載 国蝶オオムラサキの求愛 幸せの青い鳥 仕事を持つ妻は、私につきあって行動を共にすることは難しいので、「お好きにどうぞ!」・・・と、長い間放し飼い状態。ところが肺に転移した癌が大きくなってきたと言われたためか、このところ非常に珍しく、二回も中距離撮影に付き合ってくれた。 近場の運転は問題ないのだが、少し遠場になると昔のように思い立ったら即実行、とは行かなくなった。軽井沢に続いて、日光市足尾町まで運転を引き受けてくれた。お互い山で知り合って結婚したもの同士、歩くのも大丈夫。 この日、風は強いものの、空気が澄んでいてとてもさわやか。かつては、足尾銅山から流れ出る煙害のため、あたり一面さび色の山々だったが、多くの方々の努力で緑がよみがえりつつある。そんな山川を眺めながら二人で撮影ハイキング。目的の蝶は風に流されたり、撮影位置まで来てくれず、あきらめて引き返す途中、幸運にも風をさえぎる場所を発見。粘って雌雄を撮影できた。 船石峠を越え、銀山平に向かう林道でコルリを発見!撮影はできなかったが、めったに出合えない美しい鳥とのつかの間の遭遇は二人を喜ばせた。そういえば、闘病仲間のNさん夫婦とヤシオツツジの咲くころ、三境山林道を走っていたらオオルリが目の前に止まってくれた。このときも妻が一緒だった。 日本人に限らず、人は青い鳥が好きなようだ。今年の冬はルリビタキの撮影に明け暮れた。カワセミの瑠璃色も魅力的。 それから二日後、心配だったがんセンターの検査結果が出た。一度大きくなりかけたがんだったが、大きさは三ヶ月前と変わらず、どちらかというと縮小気味とのこと。 二人の前に現れたあの日のコルリは、「幸せの青い鳥」だったのかも知れない。 2008年 7月6日掲載 青い鳥 ルリビタキ 蝶を待つ アワブキという植物がある。この葉を食べる幼虫が蛹となりやがて羽化するスミナガシやアオバセセリという蝶の産卵場面が撮りたいと思い、五月中旬以降、五ー六回小沢沿いの道まで通った。 立ったままで長い時間、いつ飛んでくるのかわからない蝶を待つのは疲れる。ちょっぴり遠くなるが、車の中から音楽でも聴きながら観察することにした。 「テネシーワルツ」で有名なパティペイジが歌う、「チェンジング・パートナー」や「モッキン・バード・ヒル」など、小学生時代に聴いた懐かしい曲が流れる。頭の中にさまざまなことが浮かんでは消えた。 三月のコンピューター断層撮影(CT)検査で、肺に転移したがんが大きくなっていると言われた。せっかく花が咲き蝶が舞う季節が来たのに、副作用の多い治療に切り替えるのはもったいない。一回パスし、六月の検査結果を見てから私が判断することに決めた。そんなわけで、最近、今までに増して野外に出かけることが多くなった。畦道の草を刈るエンジン音。田植えの準備をしている農機具の低い音。乳母車を押しながら通りがかったおばあさんに頭を下げたら、笑顔が返ってきた。 何時間も好きな曲を聴きながら蝶が飛んでくるのを待つ間、すでに原稿が頭の中で出来上がっていた。記憶がさめないうちに家に帰ってさっそく書き始めたが、頭の中に浮かんださまざまな名文が出てこない(笑) のどかな田園の広がる舞台で夢を見ていたのかも・・・。結局、この日も産卵を見届けることはできなかった。いつもは、過去のデータに従ってすでに周知のポイントに直行なので、収穫のない日は珍しい。 難易度の高い?ことに挑戦したが、見られたのは脳裏に浮かんだ名場面や懐かしい人、優しかった人たちの思い出だったようだ。 2008年 6月8日掲載 山際に広がる水田 ジャズがやってくる 知る人ぞ知る、栃木県が誇るアマチュアビックバンド「スイング トワイライト ジャズ オーケストラ」の公演が、十八日(日)午後二時より、足利市通三丁目の足利商工会議所・友愛ホールで行われる。 毎年、県央中心にコンサートを開いていて、私と女房殿の二人は、がんの手術をした年以外、毎回出かけてはダイナミックなサウンドにしびれ、余韻を楽しみながら夜中に帰ってくる。 バンド代表の三浦氏は、学校の教師であり、教え子と始めたバンドが、やがて大きく羽ばたき、国内はもとよりアメリカで活躍するまでに至った。トランペットの日野皓正氏やクラリネットの北村英治氏などとのジョインは感動的だった。 先生とはご縁があり、今回、足利でのコンサートを開催するにあたり、協力依頼の手紙が届いたので、昔からの仲間や知人に声をかけた。すると、思った以上に売れ行きが良く、ノルマ?はすでに達成できた。 久しぶりに会うと、たいがい、飲んで騒いでカラオケへが定番だ!でも今回はひと味違う。これからも長い付き合いになるであろう人たちと、同じ音楽を聴き感動を共有できる。こんなすばらしく幸福なことはめったにない。 「昔、同級生たちと一緒に山に登ったよねえ! そうそう、一ヶ月も前から準備した新年会も楽しかったね!」 そんな会話に続いて、いつの日か、足利でともに聞いた「A列車で行こう」「オール・オブ・ミー」など、「あの時もよかったねえ!」・・・そんな会話が聞こえてくるようで、今から、来週のコンサートを楽しみにしている。 2008年 5月11日掲載 アゲハチョウの舞う季節がやってきた 山のうたごえ 林道わきに咲くカタクリの花に、今年初めてのチョウが飛んできて吸蜜をする・・・・そんな場面を撮ろうとねばっていたら、一人の中年男性ハイカーが、口笛を吹きながら元気良く下ってきた。聞き覚えのあるその曲は、フォスター作詞作曲の「懐かしきケンタッキーの我が家」だった。 こういう歌は、ずいぶん長い間聞いていないなあ!下って行く男性の後姿を見送り、私もつられて口笛を吹いた。林床にカタクリやヒナスミレが咲き、新芽のふくらんだ雑木林に春風が通りすぎたような・・・。 中学生のころから登山に凝り出した私は、仲間を誘って足尾の庚申山など何度も登った。そんな時は、山の歌がいつも一緒だった。日本百名山で有名な深田久弥が訳詞した「いつかある日」。串田孫一が訳詞した「山こそ我が家」。その他「岳人の歌」「はるかな友に」「惜別の歌」・・・。 二十代のころ、あちこちの山で出会った日本各地からの登山者を誘って、ユニークな山岳会を作り、毎年山行をかさねた。年に一度行う盛大な夏山合宿・・・その際皆で歌おうと、私は手作りの歌集「山のうたごえ」を製作した。手書きの歌詞に自作のカットが入った五十四曲入りの歌集。夕餉の後のひととき、狭いテントの中ではオレンジ色の火をともして、山小屋での山行では、小屋の前に丸くなって歌ったものだ。憧れや、友情、別れのつらさ・・そんな思いを込めて。自然の中で共に過した思い出は、離れて暮らしていても「はるかな友に」の歌詞のように、懐かしくよみがえる。 それぞれの思いを抱いて、ヤマツツジやトウゴクミツバツツジなどの咲く稜線を歩く人たち。私たちが歌ったように、仲間たちと歌うのだろうか? 2008年 4月13日掲載 歌集 山のうたごえ Nさんのこと 三月に入り、だいぶ遅れていた山野草の開花も勢いを増してきた。カタクリ、アズマイチゲなど、可憐な花たちが咲き出せば私の里山散策も本格化する。 春という言葉の持つ、明るく希望に満ちたイメージとは裏腹に、私の心中には常に薄雲がかかっている。 もう三年以上経ったが、腎臓癌の全摘手術を受けた際、同じ部屋で共に過ごした闘病仲間のNさんが、最近、片肺の切除という辛い手術を行った。私よりたぶん五歳くらい若い彼は、まだ成人していない子どもも抱えている。既に何度も肺転移を繰り返し、そのたびに手術や抗がん剤治療を続け耐えしのいできた。 私が元気に野山を飛び回って撮影している姿を見て、最近彼はデジカメとパソコンを購入し、一緒に蝶や花などを撮影しようと意気込んでいた。今回の手術はそんな矢先の出来事で、だいぶ精神的にこたえたようだった。 いつか、がんセンターで採血を待っている際、隣に居合わせたおばさんに、「今日は混んでいますねえ・・・」と話しかけたら、おばさんは、はっきりとした口調で次のように語った。「センターでは、知り合いを作らないようにしている」それ以上の説明はなく、会話も続かず、ぶっきらぼうに終わってしまったが、わかるような気がした。 自分のがんだけでも辛いのに、友人や知人の病状までも思いやるのは荷が重過ぎる。一人こっそりと闘って行く。そんな決意が感じられ納得した。 Nさんには、入院中大変お世話になった。つらくてつらくて、ベットに5分と寝ていられなかった私は、病棟5階の通路を行ったり来たり、一日中歩き回っていた。そんな時も、散歩と称して、いつもNさんは付き合ってくれた。彼がいなかったら、あの辛さは乗り越えられなかったろう・・・。 ともに五十代の闘病仲間。傷が癒えるころは春爛漫に違いない。Nさん、ご案内しますよ!私の好きな里山の隅々までも・・・。 なんて、元気そうなことを書いては見たが、明日十七日は、先週撮影した肺のコンピューター断層撮影(CT)検査の結果が出る日。ほぼ三ヶ月に一度、気が重くなったり、少しばかり軽くなったり、生きていくのは大変! 2008年 3月16日掲載 フモトスミレの花 PTA同窓会 長女が小学校に入学したのは、もう大昔のこと。当時PTA会長をしていた友人に泣き落とされて、一学年の部長を引き受けてしまった。引き受けたからには責任を持って取り組む!・・・これが私の信条。三年生まで続けることになった。 今も行っているのか知らないが、そのころ、PTA学年対抗球技大会というのがあった。男子はソフトボール。女子はバレーボール。集まったお父さん、お母さん方は皆良い人ばかりで、事前の練習も楽しく良いチームが出来上がった。 小道具のポンポンを作って、にわか応援団を組織。お互いの試合時には黄色い声を張り上げ、他の学年を圧倒する応援を繰り広げた。結果は一学年女子は優勝!男子は最下位という粋な結果となった? 終了後の慰労会(カラオケ)では、調子に乗って、松尾和子の歌「再会」を歌って受けた思い出がよみがえる。(歳がばれますねえ!)「最下位」を少しばかりひねった。わかるかなあ? 今年になって、その時のお母さんが我が家を訪ねてきた。聞けば、数人に声をかけ食事会でもしようということだった。 夕方六時から始まった、もとPTAミニ同窓会には懐かしい十名ほどの顔が集まった。既に孫が二人もいるおばあちゃんもいたが、まだまだ皆さん若くて元気。ほとんどの方の名前も顔も覚えているし子供の名前も思い出す。学級崩壊なんてない、良き時代だったんだなあ・・・と感慨もひとしお。今では学年部長など引き受ける人もなく、ジャンケンで決めるそうだ。 実は、話を持ってきたお母さんは、ある癌の手術後転移し、ただいま闘病中なのだ。しばらく前に会い、私も肺への転移がわかった後なので、お互いの境遇を思いやり、多少深刻な顔で別れた記憶がある。 この歳になると病気の一つや二つ、長年頑張ってきた勲章みたいなもの!・・・とは、負け惜しみかもしれないが、難病を抱えたもう一人のお母さんも含め、閉会するまでの四時間ほどの間、明るい話題が絶えなかった。 既にPTA活動を始めて二十年も時を経たのに、たった一人おじさんであるこの私にも声をかけて下さったことがうれしかった。 さあ、今度は、あの時歌った再度の「再会」を願って、病気に打ち勝ち、最高の笑顔で、旧柳原小学校PTAミニ同窓会に出席しよう。また誘ってくれるかな?それまで皆さんお元気で! 2008年 2月17日掲載 春の色彩 ヒートアップ 今から三十年ほど前、私は初めて広島を訪れた。登山が趣味だった私は、北アルプス縦走時に知り合った妻の実家を、結婚の許しを請うべく訪ねたのである。
当時、畑も残る周辺には、北関東の足利では見ることのできない亜熱帯性の蝶、ツマグロヒョウモンがあちこちに見ることができ、追いかけては何頭か採集した思い出があった。 ところが数年前から、こちらでも見ることが出来るようになり、昨年は爆発的にその数を増やした。撮影に行く先々で出会い、目撃数は優に百頭を超えるほどである。我が家の庭でも鉢植えのスミレで発生したのを確認している。 他のヒョウモンチョウ類と異なり、多化性で、気温さえ高ければ一年中でも繁殖を繰り返す。昨年最後に撮影したのは十二月十五日だった。食草がスミレ類であり、花壇に植えられることが多いパンジーでも育つので、温暖化の進んだ日本では北上する条件が整っているようだ。 たった一種類の経過を観察しただけでも、地球上の温暖化が推察できる。昨年は、ツマグロヒョウモンだけではなく、本来さなぎで越冬するはずのアゲハチョウ成虫を、十二月九日に足利市鹿島町で確認した。モンシロチョウの成虫も十二月十五日が終見日という驚くべき結果となった。 新聞やテレビの報道によれば、北極海の氷塊が解けだし、ホッキョクグマ、アザラシなどの生存も危ぶまれているという。そのほか魚類など海水温の上昇に伴う漁期や回遊水域の変化など、温暖化の影響?は枚挙にいとまがない。 人間以外の生物の心配をしているうちは、まだ余裕もあったろうが、人間本体にさまざまな影響を及ぼす事態も迫っている。乾燥化による水不足、穀物などの不作、天候の極端な変化などなど・・・。 新年早々、地球環境の悪化を嘆いてばかりいても暗くなるばかりだが、政治においても、経済においても、閉塞感の漂う昨今である。人間の欲望がヒートアップすると、地球も同じように暑くなる?良い解決方法はないものか・・・。 いっそのこと、「でもそんなの関係ねえ!」と一蹴してみたくなるが、それではあまりにも無責任! 2008年 1月20日掲載 ツマグロヒョウモン 交尾拒否 遊水池を描く |