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東京新聞栃木版コラム「四季つれづれ」掲載文U

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☆ 新しいものを上に足していきます。




ムカゴ採りに行った

 少し前の本欄でムカゴのお話を読んだ。暇さえあれば近くの林道を走り、魅力的な被写体探しをしている私なので、ついでにムカゴ探しでもしてみようかと思いたった。

 黄色く紅葉し始めた細長いハート型の葉を探しながら走るとけっこう見つかる。ところが、いきなりムカゴを採ろうとするとポロポロとこぼれ落ち、手元には何個も残らない。しかし、三つも峠を越えたころには、うまいアイディアが浮かび効率良く収獲出来るようになった。もう十分だろう!と思っても見つかるとまた採りたくなるのだから我ながら欲が深いなーと苦笑い。

 佐野市飛駒町の根古屋森林公園付近で採っていると、近所のおじさんから「なに採っているんだい?」と尋ねられた。「ムカゴです」・・・と答えると、「こっちに来てみな!」と案内された。そこには粒ぞろいのムカゴが大量にぶら下がっていた。おまけの大収穫にニコニコ。

 傍らでは、おばさんがホウレンソウの間引きをしている。夕食にお浸しにでもと思ってか、丁寧にごみなどを取り払いまとめてあった。すると、おじさんが「ホウレンソウ持っていくか?」と私に問いかける。せっかくおばさんがきれいにしたのを「これもって行け!」とドサッと全部渡してくれたのには恐縮したが、田舎の人のぶっきらぼうなやさしさに心が和んだ。

 家に帰り、大量のムカゴをご近所に少しずつわけてあげた。すると、おいしいムカゴご飯に変身しお返しがやって来た。これに味をしめたわけではないが、その後も出かけるたびにムカゴ採りをしては、友人たちにわけてあげている。

                         2008年 11月23日掲載
                   


 収獲を終えて




義父の死

広島の義父が亡くなった。私とは気が合い、お互い若くて元気なころは広島まで出かけるたびに宮島や瀬戸内の小さな島まで日帰りの釣りに出かけた。キスやアイナメ、ベラといった小さな獲物が中心だが一日中楽しむことができた。

義父は出かける際には必ず水彩でスケッチをした。穏やかな港風景など得意だった。詩人でもあり「産ましめんかな」で有名な原爆詩人の故栗原貞子氏とは家族ぐるみの親しい仲だったと聞く。子供は長女が栃木県の私の元へ、妹は滋賀県に嫁いだ。

義父母は思案の末、お寺との関係を絶ち、広島大学医学部に献体の手続きを、もうだいぶ前からしてくれていた。遠く離れている私たちの今後を気遣っての決断だった。

この夏は、義父が入院、義母も体調不良を訴えた。遠く離れた娘二人は仕事を調整しながら連絡を密にとり、何回か広島まで足を運んだ。また私の二人の娘も、それぞれお見舞いに行って、まだ元気なうちに会うことができた。亡くなる一週間前にも、妻は病院を訪ねた。私は行くことができなかったが、前回の「四季つれづれ」に、元気なころを思い出して書いた掲載文のコピーを妻が持参し読んでもらった。

九月二十一日の早朝携帯電話の音で目覚めた。妻は広島に飛んだ。その日、日本列島は大雨。その影響で飛行コースを太平洋側に変更したが何とかたどり着くことができた。

病院に駆けつけた妻だったが、義父はすでに広島大学に運ばれ対面はできなかった。集まったのは義母と妹とたった三人。遺言ということで誰にも伝えず、娘にも会わず、静かにその生涯を閉じた。そのやさしさと思いやりの深さに家族は納得している。

                         2008年 10月26日掲載



 落日(永遠)




 がんと生きる

 先日五十八歳の誕生日を迎えた。

 父は五十八歳で、また祖父は五十六歳で、いずれも胃がんで亡くなっている。

私が腎臓がんになり全摘出手術をしてから、すでに三年半以上経過した。肺に転移した際、担当医に詳しくたずねたところ、ステージW、五年生存率は限りなくゼロに近いと言われ、田村家長男の三代にわたる因果を複雑な思いで受け止めた。

ところが、もう一年半ほどでおしまいとは思えない経過をたどっている。いまのところ肺以外に転移しないのだ。大きさもあまり変わらず、最近では、ある薬をやめたら意外と体調がよくなり、今まで以上に野山に出かけている。

つい先日も、中学時代の同級生四人で(うち三人は当時生物部員。もう一人はクラスメイトの女性)私の好きな八ヶ岳周辺まで足をのばした。車の中は冗談や駄じゃれが飛び出し(私の担当?)明るくにぎやか。Kちゃん手作りのお弁当を白樺林の中でごちそうになったり、根に猛毒が含まれるが大変美しいヤマトリカブトや、温暖化のせいか二千百二十七メートルの麦草峠付近において、いまだ元気にナンブアザミの花で吸蜜するクジャクチョウなどを撮影して歩いた。

もうすぐ同級生が定年を迎える。二年以上生きのびれば気のおけない仲間や、私と同じ歳の妻ともハイキングや野山の散策などに気兼ねなく出かけられる。なんだかそれも可能に思えてきた。

八・五センチとあまりに大きかった腎臓がんに対し当初は悲観的だったが、今を精いっぱい生きようと考え直し、ここまで生きてきた。是が非でも田村家の記録を更新しなければ・・・!

                         2008年 9月28日掲載



 美しいヤマトリカブト




 夏が通り過ぎて行く

  八月もきょうでおしまい。二人の子どもたちが小さく、私の母や義理の父母が元気だったころは、夏になると主に信州方面に良く出かけた。八ヶ岳・穂高涸沢・乗鞍岳・白馬周辺などへ、ドライブや何日もかけて登山もした。

 あのころからだいぶ時が流れた。母はだいぶ前に他界し、現在広島に住む義父は九十歳目前の高齢で脳血管障害を起こし入院中。義母も数年前から闘病中。先日、妻と子供二人がお見舞いに出かけたが、介護問題も含め、今後の対応にめどが立っていない。

今年の夏、久々に自分の運転でのんびり信州を回ってきた。たどる道は、誰もが元気だったころの笑顔を思い起こさせる懐かしい道。硫黄岳や夏沢峠が見渡せる八ヶ岳の林道。入道雲がわき立つ乗鞍高原。諏訪湖の背後に広がる高ボッチ山から見はるかす北アルプスの山並み。あのころに戻れるのなら、いつまでもいつまでも、夏がやって来るたびに私の好きな風景の中、花が咲き蝶の舞う高原や森林を、張り切って案内するのだがそれはもうかなわない。

 四季がめぐるように、自分を中心とした人生の季節もすでに夏は過ぎ、絹雲が高く流れ、マツムシソウの紫が似合う季節となった。それはそれで良いし仕方ないことだ。それぞれの季節を、精いっぱい生き抜いてきた亡き母や闘病中の義父母に対し、いくつかの明るい思い出を残せてあげられたことで、私自身は納得する以外ない。

 当時、家族総出の信州行に同行したわが子二人は今まさに春まっただ中。親から自立して、新鮮な季節の中を歩き出したばかり。

 新しいカレンダーは彼女らにめくってもらおう。

                         2008年 8月31日掲載



 マツムシソウとスジボソヤマキチョウ




 応援団に囲まれて

 CDジャケットの写真に私の画像を使っていただいたご縁で、元赤い鳥(代表曲「翼をください」)や元ハイファイセットのボーカル山本潤子さんから、ときどきメールをいただく。前回ここに書いた内容・・・癌が縮小ぎみということを知らせたら、「田村さんは気持ちがお強い方だなと思います・・・」。そんなメールをいただいた。その返事に、私はこう書いた。「けっこう気が小さいのです。友人が多いのでみんなに知らせて、応援団に頼ろうとしているだけです・・・」と。

 熊本からは古い山の仲間Kさんが、免疫力を高めるというキノコ(ホウロクタケ)を山で採っては乾燥し、途切れることなく送ってくれる。東京中野の百観音明治寺の先代住職Kさん夫妻と親しかったので、あとを継いだ息子さんが治るよう観音様にお願いしてくれている。また、東京の茗荷谷にある林泉寺において、座禅の会の発足当時からの会員である絵の先輩Kさんが、住職が拝むと病気に効果抜群!ということで頼んでくれている。和歌山からはまだお会いしたことのない蝶の友人Nさんが、心休まる手作り作品を送ってきて励ましてくれる。


 応援団はまだまだたくさんいて、絵の仲間、蝶の仲間、ネットで知り合った多くの方々、同級生などなど。私にとってこれらの人たちの応援は、抗がん剤やインターフェロンにも勝る良薬?なのである。これだけ多くの方々の応援があるので、そう簡単には負けられない。なんだかこのまま逃げ切れるような気がしてきた(笑)

 
最近私の「四季つれづれ」の内容が闘病日記みたいなので気になっていたが、こうした応援を受けながら、これからも癌とともに過ごす日々の中で感じたことなどを書いていこうと思っている。
   
                      2008年 8月3日掲載



 
国蝶オオムラサキの求愛




 幸せの青い鳥

 仕事を持つ妻は、私につきあって行動を共にすることは難しいので、「お好きにどうぞ!」・・・と、長い間放し飼い状態。ところが肺に転移した癌が大きくなってきたと言われたためか、このところ非常に珍しく、二回も中距離撮影に付き合ってくれた。

 近場の運転は問題ないのだが、少し遠場になると昔のように思い立ったら即実行、とは行かなくなった。軽井沢に続いて、日光市足尾町まで運転を引き受けてくれた。お互い山で知り合って結婚したもの同士、歩くのも大丈夫。

 この日、風は強いものの、空気が澄んでいてとてもさわやか。かつては、足尾銅山から流れ出る煙害のため、あたり一面さび色の山々だったが、多くの方々の努力で緑がよみがえりつつある。そんな山川を眺めながら二人で撮影ハイキング。目的の蝶は風に流されたり、撮影位置まで来てくれず、あきらめて引き返す途中、幸運にも風をさえぎる場所を発見。粘って雌雄を撮影できた。

 船石峠を越え、銀山平に向かう林道でコルリを発見!撮影はできなかったが、めったに出合えない美しい鳥とのつかの間の遭遇は二人を喜ばせた。そういえば、闘病仲間のNさん夫婦とヤシオツツジの咲くころ、三境山林道を走っていたらオオルリが目の前に止まってくれた。このときも妻が一緒だった。

 日本人に限らず、人は青い鳥が好きなようだ。今年の冬はルリビタキの撮影に明け暮れた。カワセミの瑠璃色も魅力的。

 それから二日後、心配だったがんセンターの検査結果が出た。一度大きくなりかけたがんだったが、大きさは三ヶ月前と変わらず、どちらかというと縮小気味とのこと。

 二人の前に現れたあの日のコルリは、「幸せの青い鳥」だったのかも知れない。

   
                      2008年 7月6日掲載



 青い鳥  ルリビタキ




 蝶を待つ

 アワブキという植物がある。この葉を食べる幼虫が蛹となりやがて羽化するスミナガシやアオバセセリという蝶の産卵場面が撮りたいと思い、五月中旬以降、五ー六回小沢沿いの道まで通った。

 立ったままで長い時間、いつ飛んでくるのかわからない蝶を待つのは疲れる。ちょっぴり遠くなるが、車の中から音楽でも聴きながら観察することにした。

 「テネシーワルツ」で有名なパティペイジが歌う、「チェンジング・パートナー」や「モッキン・バード・ヒル」など、小学生時代に聴いた懐かしい曲が流れる。頭の中にさまざまなことが浮かんでは消えた。

 三月のコンピューター断層撮影(CT)検査で、肺に転移したがんが大きくなっていると言われた。せっかく花が咲き蝶が舞う季節が来たのに、副作用の多い治療に切り替えるのはもったいない。一回パスし、六月の検査結果を見てから私が判断することに決めた。そんなわけで、最近、今までに増して野外に出かけることが多くなった。畦道の草を刈るエンジン音。田植えの準備をしている農機具の低い音。乳母車を押しながら通りがかったおばあさんに頭を下げたら、笑顔が返ってきた。

 何時間も好きな曲を聴きながら蝶が飛んでくるのを待つ間、すでに原稿が頭の中で出来上がっていた。記憶がさめないうちに家に帰ってさっそく書き始めたが、頭の中に浮かんださまざまな名文が出てこない(笑) のどかな田園の広がる舞台で夢を見ていたのかも・・・。結局、この日も産卵を見届けることはできなかった。いつもは、過去のデータに従ってすでに周知のポイントに直行なので、収穫のない日は珍しい。

 難易度の高い?ことに挑戦したが、見られたのは脳裏に浮かんだ名場面や懐かしい人、優しかった人たちの思い出だったようだ。
 
   
                      2008年 6月8日掲載



 山際に広がる水田




ジャズがやってくる

 知る人ぞ知る、栃木県が誇るアマチュアビックバンド「スイング トワイライト ジャズ オーケストラ」の公演が、十八日(日)午後二時より、足利市通三丁目の足利商工会議所・友愛ホールで行われる。

 毎年、県央中心にコンサートを開いていて、私と女房殿の二人は、がんの手術をした年以外、毎回出かけてはダイナミックなサウンドにしびれ、余韻を楽しみながら夜中に帰ってくる。

 バンド代表の三浦氏は、学校の教師であり、教え子と始めたバンドが、やがて大きく羽ばたき、国内はもとよりアメリカで活躍するまでに至った。トランペットの日野皓正氏やクラリネットの北村英治氏などとのジョインは感動的だった。

 先生とはご縁があり、今回、足利でのコンサートを開催するにあたり、協力依頼の手紙が届いたので、昔からの仲間や知人に声をかけた。すると、思った以上に売れ行きが良く、ノルマ?はすでに達成できた。

 久しぶりに会うと、たいがい、飲んで騒いでカラオケへが定番だ!でも今回はひと味違う。これからも長い付き合いになるであろう人たちと、同じ音楽を聴き感動を共有できる。こんなすばらしく幸福なことはめったにない。

 「昔、同級生たちと一緒に山に登ったよねえ! そうそう、一ヶ月も前から準備した新年会も楽しかったね!」

 そんな会話に続いて、いつの日か、足利でともに聞いた「A列車で行こう」「オール・オブ・ミー」など、「あの時もよかったねえ!」・・・そんな会話が聞こえてくるようで、今から、来週のコンサートを楽しみにしている。
 
                         2008年 5月11日掲載

 



 アゲハチョウの舞う季節がやってきた




山のうたごえ

 林道わきに咲くカタクリの花に、今年初めてのチョウが飛んできて吸蜜をする・・・・そんな場面を撮ろうとねばっていたら、一人の中年男性ハイカーが、口笛を吹きながら元気良く下ってきた。聞き覚えのあるその曲は、フォスター作詞作曲の「懐かしきケンタッキーの我が家」だった。

 こういう歌は、ずいぶん長い間聞いていないなあ!下って行く男性の後姿を見送り、私もつられて口笛を吹いた。林床にカタクリやヒナスミレが咲き、新芽のふくらんだ雑木林に春風が通りすぎたような・・・。

 中学生のころから登山に凝り出した私は、仲間を誘って足尾の庚申山など何度も登った。そんな時は、山の歌がいつも一緒だった。日本百名山で有名な深田久弥が訳詞した「いつかある日」。串田孫一が訳詞した「山こそ我が家」。その他「岳人の歌」「はるかな友に」「惜別の歌」・・・。

 二十代のころ、あちこちの山で出会った日本各地からの登山者を誘って、ユニークな山岳会を作り、毎年山行をかさねた。年に一度行う盛大な夏山合宿・・・その際皆で歌おうと、私は手作りの歌集「山のうたごえ」を製作した。手書きの歌詞に自作のカットが入った五十四曲入りの歌集。夕餉の後のひととき、狭いテントの中ではオレンジ色の火をともして、山小屋での山行では、小屋の前に丸くなって歌ったものだ。憧れや、友情、別れのつらさ・・そんな思いを込めて。自然の中で共に過した思い出は、離れて暮らしていても「はるかな友に」の歌詞のように、懐かしくよみがえる。

 それぞれの思いを抱いて、ヤマツツジやトウゴクミツバツツジなどの咲く稜線を歩く人たち。私たちが歌ったように、仲間たちと歌うのだろうか?

 
                         2008年 4月13日掲載




 歌集 山のうたごえ




Nさんのこと

 三月に入り、だいぶ遅れていた山野草の開花も勢いを増してきた。カタクリ、アズマイチゲなど、可憐な花たちが咲き出せば私の里山散策も本格化する。

 春という言葉の持つ、明るく希望に満ちたイメージとは裏腹に、私の心中には常に薄雲がかかっている。

 もう三年以上経ったが、腎臓癌の全摘手術を受けた際、同じ部屋で共に過ごした闘病仲間のNさんが、最近、片肺の切除という辛い手術を行った。私よりたぶん五歳くらい若い彼は、まだ成人していない子どもも抱えている。既に何度も肺転移を繰り返し、そのたびに手術や抗がん剤治療を続け耐えしのいできた。

 私が元気に野山を飛び回って撮影している姿を見て、最近彼はデジカメとパソコンを購入し、一緒に蝶や花などを撮影しようと意気込んでいた。今回の手術はそんな矢先の出来事で、だいぶ精神的にこたえたようだった。

 いつか、がんセンターで採血を待っている際、隣に居合わせたおばさんに、「今日は混んでいますねえ・・・」と話しかけたら、おばさんは、はっきりとした口調で次のように語った。「センターでは、知り合いを作らないようにしている」それ以上の説明はなく、会話も続かず、ぶっきらぼうに終わってしまったが、わかるような気がした。

 自分のがんだけでも辛いのに、友人や知人の病状までも思いやるのは荷が重過ぎる。一人こっそりと闘って行く。そんな決意が感じられ納得した。

 Nさんには、入院中大変お世話になった。つらくてつらくて、ベットに5分と寝ていられなかった私は、病棟5階の通路を行ったり来たり、一日中歩き回っていた。そんな時も、散歩と称して、いつもNさんは付き合ってくれた。彼がいなかったら、あの辛さは乗り越えられなかったろう・・・。

 ともに五十代の闘病仲間。傷が癒えるころは春爛漫に違いない。Nさん、ご案内しますよ!私の好きな里山の隅々までも・・・。

 なんて、元気そうなことを書いては見たが、明日十七日は、先週撮影した肺のコンピューター断層撮影(CT)検査の結果が出る日。ほぼ三ヶ月に一度、気が重くなったり、少しばかり軽くなったり、生きていくのは大変!
 
                         2008年 3月16日掲載




 フモトスミレの花  




PTA同窓会

 長女が小学校に入学したのは、もう大昔のこと。当時PTA会長をしていた友人に泣き落とされて、一学年の部長を引き受けてしまった。引き受けたからには責任を持って取り組む!・・・これが私の信条。三年生まで続けることになった。

 今も行っているのか知らないが、そのころ、PTA学年対抗球技大会というのがあった。男子はソフトボール。女子はバレーボール。集まったお父さん、お母さん方は皆良い人ばかりで、事前の練習も楽しく良いチームが出来上がった。

 小道具のポンポンを作って、にわか応援団を組織。お互いの試合時には黄色い声を張り上げ、他の学年を圧倒する応援を繰り広げた。結果は一学年女子は優勝!男子は最下位という粋な結果となった?

 終了後の慰労会(カラオケ)では、調子に乗って、松尾和子の歌「再会」を歌って受けた思い出がよみがえる。(歳がばれますねえ!)「最下位」を少しばかりひねった。わかるかなあ?

 今年になって、その時のお母さんが我が家を訪ねてきた。聞けば、数人に声をかけ食事会でもしようということだった。

 夕方六時から始まった、もとPTAミニ同窓会には懐かしい十名ほどの顔が集まった。既に孫が二人もいるおばあちゃんもいたが、まだまだ皆さん若くて元気。ほとんどの方の名前も顔も覚えているし子供の名前も思い出す。学級崩壊なんてない、良き時代だったんだなあ・・・と感慨もひとしお。今では学年部長など引き受ける人もなく、ジャンケンで決めるそうだ。

 実は、話を持ってきたお母さんは、ある癌の手術後転移し、ただいま闘病中なのだ。しばらく前に会い、私も肺への転移がわかった後なので、お互いの境遇を思いやり、多少深刻な顔で別れた記憶がある。

 この歳になると病気の一つや二つ、長年頑張ってきた勲章みたいなもの!・・・とは、負け惜しみかもしれないが、難病を抱えたもう一人のお母さんも含め、閉会するまでの四時間ほどの間、明るい話題が絶えなかった。

 既にPTA活動を始めて二十年も時を経たのに、たった一人おじさんであるこの私にも声をかけて下さったことがうれしかった。

 さあ、今度は、あの時歌った再度の「再会」を願って、病気に打ち勝ち、最高の笑顔で、旧柳原小学校PTAミニ同窓会に出席しよう。また誘ってくれるかな?それまで皆さんお元気で!

 
                         2008年 2月17日掲載




春の色彩  




ヒートアップ

 今から三十年ほど前、私は初めて広島を訪れた。登山が趣味だった私は、北アルプス縦走時に知り合った妻の実家を、結婚の許しを請うべく訪ねたのである。

 当時、畑も残る周辺には、北関東の足利では見ることのできない亜熱帯性の蝶、ツマグロヒョウモンがあちこちに見ることができ、追いかけては何頭か採集した思い出があった。

 ところが数年前から、こちらでも見ることが出来るようになり、昨年は爆発的にその数を増やした。撮影に行く先々で出会い、目撃数は優に百頭を超えるほどである。我が家の庭でも鉢植えのスミレで発生したのを確認している。

 他のヒョウモンチョウ類と異なり、多化性で、気温さえ高ければ一年中でも繁殖を繰り返す。昨年最後に撮影したのは十二月十五日だった。食草がスミレ類であり、花壇に植えられることが多いパンジーでも育つので、温暖化の進んだ日本では北上する条件が整っているようだ。

 たった一種類の経過を観察しただけでも、地球上の温暖化が推察できる。昨年は、ツマグロヒョウモンだけではなく、本来さなぎで越冬するはずのアゲハチョウ成虫を、十二月九日に足利市鹿島町で確認した。モンシロチョウの成虫も十二月十五日が終見日という驚くべき結果となった。

 新聞やテレビの報道によれば、北極海の氷塊が解けだし、ホッキョクグマ、アザラシなどの生存も危ぶまれているという。そのほか魚類など海水温の上昇に伴う漁期や回遊水域の変化など、温暖化の影響?は枚挙にいとまがない。

 人間以外の生物の心配をしているうちは、まだ余裕もあったろうが、人間本体にさまざまな影響を及ぼす事態も迫っている。乾燥化による水不足、穀物などの不作、天候の極端な変化などなど・・・。

 新年早々、地球環境の悪化を嘆いてばかりいても暗くなるばかりだが、政治においても、経済においても、閉塞感の漂う昨今である。人間の欲望がヒートアップすると、地球も同じように暑くなる?良い解決方法はないものか・・・。

いっそのこと、「でもそんなの関係ねえ!」と一蹴してみたくなるが、それではあまりにも無責任!
 
                         2008年 1月20日掲載



ツマグロヒョウモン 交尾拒否




遊水池を描く
                     


 「渡良瀬遊水池が描きたい。」・・・前々からそう言っていた、私の先輩でもあり同じ絵画団体の仲間でもあるKさんと、Tさんが、はるばる東京や所沢から二泊三日の予定で初冬の足利までやってきた。

 東武伊勢崎線足利市駅に到着してすぐ遊水池に向かった。お昼はパンでも食べれば良いと言う。少しでも早く、遊水池をこの目で確認し描きたい!そんな彼の思いが強く感じられた。

 Kさんは、足尾鉱毒事件や田中正造についての知識は持っている。最近の遊水池は整備され昔ほどではないが、荒涼とした葦や荻の大湿原には、あえなく離散した旧谷中村の人々の思いが漂っている。・・・そんなことを話してはおいた。Kさんは、「荒涼」という言葉が気に入った様子だった。

 遊水池に着くと、Kさんは、正面から北風の吹く高台に陣取り、イーゼルをガードレールに縛り付け、立ったままで早速横長のキャンバスに描き始めた。傍らでTさんは水彩画を丁寧に描いている。私はその場を離れ別のところで描くことにした。車でかなり反対側に走っても、高台の上に黒いフードをかぶって描いているKさんの姿が確認できる。描いてはいるが、北風と戦っているようにも見えた。

 この日は空気が澄んでいて、南から富士山・秩父連山・その向こうに八ヶ岳、それから故郷の山、上毛三山・足尾・日光連山と見渡せ、東には筑波山も間近に望めた。

 やがて、日は西に傾き、湿原は刻一刻とその色合いを変えてゆく。Kさんは日没間際まで一回も休まず描き続けたと私に話した。ある時間から風もやみ、夕焼けは穏やかなものだった。

 最終日、遊水池で再び描き始めるKさんとTさん。私は、前日の夜、同窓会があり遅くまで付き合ったので、この日は疲れて描けない。カメラをぶら下げ、チュウヒや足元の草の実などを撮影して過ごした。こうして、三人にとって充実の三日間が無事過ぎた。

 今月のある日、Kさんから一枚のハガキが届いた。「まる三日間全力疾走した。まさに魂を奪われて絵を描いていた感じでした。」また、「遊水池の後遺症で、二日ほどだるくて頭が痛くて眠れなくて・・・」と、私と似たような症状が書かれていた。

 しかし、その後に続く文章はすごかった。要約すれば、あのまま手を入れなくて良しと思っていたが、ちょうどそのころ行われた、我々の師である麻生三郎展を見てその厳しさを実感。「ああ、やっぱりだめだ。とくに夕空は俗っぽく恥ずかしい。印象が生きているうちにと、今、一所懸命になって描いています」と書かれていた。

 Kさんは、ビルの床掃除の仕事を何十年もしながら、ほとんどの時間を描くために使っている。私のような何でも屋ではなく、絶滅危惧的な本物の絵描きなのである。

                         2007年 12月16日掲載



日が沈むころ




Tちゃんの絵

 幅一.五キロメートル、奥行き二キロメートルほど、前面と両側面が山に囲まれた私の故郷(小谷地区)は、かつて豊かな自然が存在していた。田んぼや畑に沿って、車一台通れるほどのジャリ道が延び、かたわらには小川が流れ、初夏には蛍も飛び交った。

 従兄のTちゃんの家はすぐ隣。今から五十年も前から私にとってのお師匠様。鳥や植物、昆虫と何でも知らないものはなく、三歳ごろから実物を観察して得たという知識は目を見張るものがある。

 何も見ないで正確に描くことができる。絵を描いていろいろ説明してくれることが気に入ったのか、小学生になる前から頻繁に通い、私も自然に対する興味を深めていった。

 Tちゃんはもうだいぶ前から、宅地開発や山際畑地の放棄、小川の改修・汚染、山林の荒廃などによる嘆かわしい実態を憂えていた。ある日、私にこう言った「長生きをしすぎた」と。「こんな姿見なければ良かった」とも。

 日本画を描くTちゃんは、まだ田んぼだらけで、かやぶき屋根が点在する懐かしい当時の風景を、資料を集めながら丁寧に描き起こした。田んぼの枚数も正確に描いた。私が子どものころに見た風景がよみがえった。

 それからTちゃんは、昭和十五年ごろから現在までに、故郷から消えてしまった様々な生物を一つ一つ書き出した。植物七十三種、鳥類十五種、トンボ三十種、魚六種、貝類三種などなど。いただいた手書のメモが手元にあるが、こんな狭い範囲で、これだけ多くの生物が絶滅してしまったことに驚きを隠せない。この数字は、私の故郷に限らず、都市近郊の農村地帯全般にわたるものだろう。

 参考までに一部を書けば、植物ではオミナエシ・ネジバナ・エビネなど。鳥類ではヨタカ・ブッポウソウ・ウズラなど。トンボではチョウトンボ・ギンヤンマ・カトリヤンマなど・・・。

 現代人は豊かさを追い求めているうちに多くのものを失ってしまった。しかし、どれだけの人たちが失われた個々の生物たちを知っていたのだろうか?存在も誇示せず、何の反論もせずこれらの生物たちは消えてしまった。

 失われたこれらの生物を、一つ一つ思い出とともに書き出したTちゃんの切ない思いは想像するに余りある。少し遅れて生まれはしたが、同じ時代を共に生きてきた私も、たった五十年ほどの間に失われた数々の生物たちを一つ一つ思い浮かべてみた。

                         2007年 11月18日掲載



懐かしい小谷地区の風景




カラタチに誘われて

 たいがいの人が知っているアゲハチョウの食樹を調べると、サンショウ類とカラタチと書かれている。わが家ではサンショウとカラスザンショウを庭に植えてあるので、年に何回もアゲハチョウの雌が産卵に訪れる。カラタチはトゲが太く鋭いので植えていない。

 私が子供のころ、近くの足利高校の土手にはカラタチの生け垣が張り巡らされていた。また、近くの墓地にもカラタチの木が植えられていた。鉄条網顔負けのトゲトゲなので外部からの進入を防ぐ目的で植えられたようだ。今ではブロック塀などに変り、数本残っていたカラタチも役目を終え切られてしまった。

 小学唱歌、北原白秋と山田耕筰の「からたちの花」、乙女心を歌った島倉千代子の「からたち日記」ーこれらの歌を知っている方は、私と同じくらいかそれ以上の年齢の方?

 「からたちの花が咲いたよ・・・」と歌われているが、まだ葉が出ていないころに咲く清楚な白い五弁の花を見たことある方は少ないだろう。今、私が知っている場所はほんの数カ所。カラタチの名前も美しい歌も忘れ去られてしまうのだろうか?

 ところが調べて驚いた。ミカン類繁殖のため接ぎ木の台木用として大活躍しているとのこと。日本のミカン類が「世界まれに見る発展を遂げたのは「カラタチ」のおかげである。」・・・と書かれているのを読んで驚いたし、うれしくも思った。

 今月の上旬、ネットで知り合った短歌や俳句をたしなむHさん親子が、ヒガンバナなどの咲く里山を散策したいということで東京から足利を訪れた。足利や佐野市飛駒町周辺の里山が気に入っていて何度も訪れている。事前に下見をしておいたコースを丁寧にたどる。

 ヒガンバナはまだ新鮮な花も多く、黄色く実った稲穂と共に、鮮やかで健康そうな色彩を放っている。その上空を赤トンボが逆光の中、羽を白く輝かせ無数に飛んでいる。あちこちからモズの高鳴きが聞こえる。

 もう十分里の秋を満喫した。飛駒も最奥まで回ってきた。車を足利に向け走らせていると、ピンポン玉くらいの黄色い実がたくさん実っている光景が目に飛び込んできた。それは懐かしいカラタチの実だと瞬間に判断できた。車をバックし、確認するため三人はそこまで歩いた。いつの間にか「カラタチの花」を口ずさんでいた私たちがいた。

                         2007年 10月21日掲載



カラタチの実




舞台「ナースコール」

 中学時代からの友人U氏(女性)は頑張り屋だ。何でも極めないと気がすまない性格。学生時代は岩登りに通い、厳冬期の北アルプスにも登っている。教員をしているU氏は長い間演劇部の顧問をしていた。

 足利市では、平成十七年度より二年間、文化庁の支援を受け、「文化芸術による創造のまち支援事業」を行ってきた。その一つが演劇大学。プロの演劇人の指導のもと、これまでに「胸騒ぎの放課後」「翼をください」を公演してきた。私は関係者ではないので、練習風景など一度も見たことはない。ところが、毎回U氏に頼まれ、もう一人の友人T氏と共に公演直前のゲネプロ(通し稽古)時に撮影をしてきた。

 今月上旬、演劇大学で学んだ卒業生が中心となった、「演劇大学スーパーユニット」による公演「ナースコール」が行われた。いつもならゲネプロのときに撮影したのだが、今回はU氏も間際まで予定がわからず、直前になってケイタイにメールが届いた。行ってみたら「まだ駄目出し」(俳優・スタッフへの、演出家からの要請)中でゲネプロのときとは違った光景を見ることが出来た。

 舞台上のすべての人たちが、指示に従ってテキパキと動く。演じてみてやりにくいところはその場で即修正する。上演に向かってすべてのエネルギーが、ある一点に収束しょうとしている姿を見るのは新鮮だった。またうらやましくも思った。

 年功序列、相互扶助時代の日本経済は、会社を大事にし、目的に向かって個々の力が結集されていたように思えた。昨今の成果主義では同僚も敵。ムチを打たれながら結果を出さなければ明日はない!そんな閉塞感から、うつ病にかかる人が非常に多い。

 駄目出しの光景の中から、生き生きとしてそれぞれの立場や責任を全うするには、つらい練習(けっこう楽しいのかも知れないが)にも耐えながら、目標に向かって進む「連帯感」が必要なのだろう、と感じた。演出家の指導のもととは言え過去二回の公演はすばらしかった。

 今回の「ナースコール」は、病院内で繰り広げられる日常を、ユーモアと哀歓たっぷりに演じ、新型肺炎(SARS)に似た新型インフルエンザ発症か?という困難にも一丸となって立ち向かう。 気迫を持って演じる姿に、演劇を愛するキャストやスタッフ個々の姿が重なった。

                         2007年 9月23日掲載



ナースコールのワンシーン




地球の怒り?

 長かった梅雨がやっと明けたかと思ったら、今度は猛暑の到来。どうなっちゃったんでしょうねえ?地球は。

 世界各地で異常気象。北極海の氷がすごいスピードで溶けだしたり、規模の大きい台風やサイクロン、ハリケーン到来での洪水。気象の変化の振幅が大きくなったようで怖いですね。これらは温暖化の影響だろうとわかっていても、すぐに改善される有効な策は見当たりません。小さなことからコツコツとやっていくしかないのでしょうか?なんだか末恐ろしい気がします。

 毎週野外に出て蝶や花などの写真を撮っているのですが、最近は蝶が少ないです。キツネノカミソリやクサギの花にカラスアゲハやクロアゲハ、モンキアゲハなどが吸蜜に訪れるはずなのにほとんど姿を見かけません。

 アゲハの種類は日中気温が高すぎると木陰に隠れてじっとしている。そんな場面を何回か目撃したことがあります。人間だってこう暑ければ、野山を飛び回っていたら熱中症にかかってしまいます。蝶をあまり見かけないのは、涼しいところから出てこないからなのでしょうか?

 黒系のアゲハの雄は集団を形成して、湿った林道の水たまり周辺や、川原の砂礫地などで水を吸ってはお尻から繰り返し放出する、ポンピングという行為をします。水分中のミネラル分の吸収以外に、体を冷やす水冷効果もあるようです。

 今月初旬、軽井沢において今まで見たこともない吸水大集団を、蝶のHP仲間の案内で撮影することができました。太陽が照っている日に雄のみがとる行動です。これもいわゆる一つの「避暑対策」なのでしょうか?

 この夏、私の出動回数も例年に比べ猛暑の影響でかなり少ないのです。高原の豪華な別荘にでも出かけ、暑い間は避暑・・・なんて贅沢が出来たら最高なのですが、まず無理です(笑)

 そんな中、オオハンゴンソウ、セイタカアワダチソウ、アレチウリ、コセンダングサなど、困ったほど元気で繁殖力旺盛な植物が目立ちます。気温の上昇による生態系への影響も大きいのだと思います。

 地元では北関東道の建設が進み、あちこちの里山周辺が崩されたり削られたりして痛々しいです。外来植物の進出と似ていて、今までの自然を変えてしまい、おまけに温暖化に対しても悪影響を及ぼす。人間のなすことすべてに反対はできませんが、人類はどこまで自然を壊し続けるのでしょうか?

 温暖化による異常気象は、そんな地球の怒りそのものだと思います。

                         2007年 8月26日掲載



ミヤマカラスアゲハの吸水集団




ハイキングの思わぬ効用

 昔、テレビを見て受けた感動がいまだ忘れられない。だいぶ年月が過ぎたので細部までは正確に覚えていないが、およそ次のような内容だった。

 末期癌の方が起こした行動・・・。それは、夫婦ともに登山が好きだったので、ヒマラヤだったか、かなり高い山に二人して登ったのである。もうじき死を迎える。その前に癌の辛さを忘れ、身も心も開放される大好きな登山がしたい・・・。癌と戦っていても心は健康な思考だ。 さて、登り終えて驚いたことには、癌が縮小しだしたと言うのである。その後も海外の山登りを続け、快方に向かっている・・・そう記憶している。

 私の家系は癌が多いので、当時若かった私が見ても、このドキュメンタリーは心を揺さぶった。私も妻も山登りをしていたのでなおさらだったのかも知れない。

 年月が過ぎ、私も癌にかかってしまった。当初はショックで辛かったが、今は大丈夫!私にも大好きな自然がある。家族や仲間もいる。

 六月のある日、友人に誘われて日光戦場ヶ原までワタスゲを見に出かけた。友人はその前の週にもワタスゲを探しに出かけたが、大雨とカミナリに遭い、やむなく撤退してきたという。私が誘われたのは、NHKのニュースで、今が見頃と報じていたのを友人が見て、リベンジ心をくすぐられたからだ。

 前日の午後に誘われた急な話なので、私は何も準備せず当日を迎えた。朝七時に駐車場に着いたが既に満車。遠くの駐車場から歩きだす。

 見渡す限りの青空。新緑が美しい。エゾハルゼミの合唱。カッコウの声・・・。ひたすら友人の後をついて歩き続けた。しかし、ワタスゲは見つからない。小田代ヶ原まで歩いたが一本もない。前方から歩いてきたハイカーに聞いたら、「こっちではなく、戦場ヶ原ですよ!」案内板を確認して戦場ヶ原方面へ。

 なるほど、見つかった。歩けば歩くほど多くなる。そして最大の群落があったのは、朝歩きだしてわずかなところだった。分岐点を間違って左に進んでしまった。おかげさまで、十数分で見られるところを五時間も歩いた。元山岳部の私なのだが、観光地ということで甘く見た(笑)

 がんセンターの検診で、医師にこのことを話したら、「腎臓癌は特に免疫力が影響するから、良いことでしょう!」とのこと。五時間も歩いたのは友人の心遣い?

 私も好きな自然の中に身をおき、テレビで見た方のように癌を克服したい。

                         2007年 7月8日掲載



戦場ヶ原のワタスゲ




カエルの声探し

 インターネットの掲示板やブログなどを通じて知り合った仲間が、ネットから飛び出して実社会で会うことをオフ会と呼んでいる。

 私は掲示板は持たないが、「ネイチャーフォト 私と自然」というホームページを運営している。類は友を呼ぶという言葉のように、長い間、画像や随想などをアップしていると、全国に多くの知り合いが出来る。チョウの画像が中心だが、野の花や鳥や里山の風情なども写しているので、知り合いはチョウ関係だけにとどまらない。

 何で知り合いになったのか書くと長くなるので割愛するが、俳句や短歌などをたしなむすてきな女性二名(年齢は内緒!)が足利を訪れた。俳句を作る、いわゆる吟行のためではなく、今回はカジカガエルのあの涼しそうな声が聴きたい・・・ということで私が案内役を買って出た。

 少しばかり足利観光(鑁阿寺や織姫山散策)をして、一路、カジカガエルの棲む渓流を目指した。最高のポイントに着いてみると、どうも様子が変だ。鳴いていない。それでも渓畔まで慎重に降りて、三人耳を澄ます。でも聴こえない。

 足元をどこまでも澄んだ沢水が流れ、見上げる先には木に絡みついた藤の花が垂れ下がる。ウスバシロチョウがハルジオンの花でのんびり吸蜜をしている。おぜんだては上々なのに・・・。気温が低すぎるようだ。

 後ろ髪を引かれる思いで峠越えをし、少し開放的な河川沿いに車を走らせる。この道はいつもの私の周回コース。どこにどんな花が咲いているかほとんどわかっている。ヤブデマリの白い花が、既に日のかげった山際に咲いている事は承知していた。

 三人ともカメラ持参なので、車を降りて撮影に興じる。すると、どこからかカジカガエルらしいかすかな声が聴こえた。三人耳を澄まし、あらかじめ予習(ネットで検索すると鳴き声が聴こえる)したカジカガエルの声に周波数を合わせる。それは確かにカジカガエルのソロ鳴き?だった。

 その後撮影に出かけた秋山川や野上川では、抜けるような青空の下、カジカガエルの大合唱を聴くことが出来た。この声と一緒に、山の緑や澄んだ空気を東京に住む彼女たちに送ってやれたなら・・・。

                         2007年 6月10日掲載



岩の上で鳴くカジカガエル
 




お見舞い三者三様

  すっかり山々の緑も色濃く変化し、里山をめぐれば、野生のフジが杉や雑木に絡みつきさわやかな花飾りを演出している。ノアザミ、ミツバウツギ、ツツジなどの花たちにはアゲハチョウ類が群れ、与えられた束の間の繁殖の時期を謳歌している。

 ほぼ天気に恵まれた連休を挟んで、友人・知人たちが闘病中?の私の元にお見舞いと称して訪れた。

まず、絵の仲間三人が東京・横浜から・・・。寝たきり病人ではないので、私が車を運転して隣町群馬県桐生市にある大川美術館に出かけた。

 この美術館は目玉でもある松本峻介、野田英夫のコレクションを誇り、これを軸に二人とつながりのあった画家達の作品が中心となって展示されている。

 我々が学んだ麻生三郎先生は松本峻介の親しい友人だった。また山口長男先生の絵も常設してある。そんな縁で、仲間たちはお気に入りのこの美術館には何度も足を運んでいる。(今回の滞在時間・・・お昼ごろから閉館の五時半まで)

 もう一つのお見舞いは、中学時代の友人三人が東京方面から来ると言うので、地元足利の仲間とも会いたいだろうと勝手に考えた私が、自ら幹事となって、男女九人ばかりのミニ同窓会?を開いた。会場に集まった仲間は、既に肺転移のことは知っているのでそれには触れず、五時間もの間、懐かしい昔話ばかり!(闘病中って誰のこと?)

 さていよいよ、最後の訪問者。話せば長いこの方とのご縁・・・。

 今から数年前、友人と二人で北海道までチョウの撮影に出かけた。三連泊したペンションの夕食時、たまたま隣に居合わせた年配のご夫婦とつかの間の会話を交わした。チョウなどの撮影を目的に来たこと。ホームページ(HP)を作っていることなど。何かのご縁と思いHPのアドレスの入っている名刺を渡した。

 私たちはここを基点にあちこち撮影に出かけた。後で聞いた話によると、出向いた層雲峡の大函(おおばこ)で、その夫婦は奇妙な人間を発見したそうだ。観光客が大勢いる中、長靴を履きカメラをぶら下げ走り回っている中年男性を・・・。(それは私です)

 帰って後、その姿が忘れられないと手紙をいただいた。今も年賀状やメールのやり取りが続いている。そのお二人が東京から車でやって来る。喜んで観光案内役を引き受けた。

 前向きにがんに立ち向かっているこのごろである。(笑)

                         2007年 5月13日掲載



レンゲツツジを訪れたオナガアゲハ




様子見のがん治療

  インターフェロンの自己注射を始めてそろそろ五カ月になるが、効いているのかいないのか、両肺の癌はゆっくりとではあるが大きくなっている。効き目は十五%ほどというから仕方ない。

 インターフェロンと同じ免疫療法剤には、インターロイキン2があるが、こちらは値段がすこぶる高い。入院が必要で、点滴を毎日行い、一回あたりの薬価が十一万六千円もする。これをずーっと行うには経済的にも負担が大きい。あいにく、私はがん保険に入っていなかった。(高額療養費である程度戻ってくるが・・)

 私の場合、腎臓癌が原発癌なので、放射線や抗がん剤は効かないやっかいな癌と聞いている。

 さて、今後どうしたらよいか? 私のかかっている病院では、癌の大きさを定期的に確認しているが、先の見通しについては特にアドバイスしてくれない。今のところ、免疫療法以外良い方法がないようだ。「別の病院で治療したいなら紹介状は書く」・・・と言われているが・・・。

 こうなったら自分で調べるしかない!ネットで多くのことを知った。最先端医療は、ピンポイントで病変部に放射線などを照射する方法(ノバリス・ガンマナイフ・トモセラピー・PDT・重粒子線・陽子線・定位放射線療法など)が多い。

 しかし、どの癌に対しても効果があるのかというとそうでもない。(私と違う癌の方には、参考になると思います。)まだまだ、施行している施設は少なく、高額な費用(三百万円前後)がかかるものもあり、一般的ではない。

 私が唯一たどり着いたのは、ラジオ波焼灼術という治療法だ。肝臓がんに対しては多くの病院で行われているが、転移性肺癌に対してはまだ臨床例が少ない。幸い、群馬大学付属病院で行っているのをネットで知り、電話で確かめ紹介状を持って初診を受けた。

 光が見えたと思った。ところが、癌の大きさが一センチを越えたら可能というが、片方の癌は部位が浅く対象外。今のところ様子見状態だ。

 まだまだ癌の治療は難しい。早期発見出来なかったことを悔やむが、精神が負けたら崩れてしまう。友人、知人の応援をより所に、あきらめずがんばろう・・・!

                         2007年 4月15日掲載

 

春らんまんの袋川土手




恩師へ感謝

 暖冬、温暖化と繰り返し見聞きしているうちに、サンシュユやハクレンの花が例年よりも早く咲き始めた。桜の開花も早まることだろう。

 昨年末、(癌の)肺への転移が見つかり、四十五年以上欠かすことなく出し続けていた手作り年賀状も、サボってしまった。へこんだ気持ちからか、「新年おめでとう!」と素直に書けそうになかったから・・・。

 ところが、明けて見れば例年通り多くの年賀状が届いた。このまま、何も知らせずにいたら、「あいつ、どうしたんだろう?もしや・・・。」なんて勝手に想像されるのも嫌だし、近況報告ぐらいはしておかないと・・・。そう思い直し、闘病中の詳細を書いたハガキを投函した。

 しばらくすると、全国あちこちから励ましや、お見舞いが届き、えらいこと知らせてしまったと反省した。

 山岳部の後輩が二人してケーキを作ってきてくれたり、三十年以上前、笠ヶ岳(北アルプス)の下山時にご一緒した方や、四十年近く会っていない銀行の研修時代の恩師から贈り物が届いたり、などなど・・・。

 特に驚いたのは、高校時代の恩師(八十歳になるという)と小学時代の恩師(退職して十二年たつという)が、我が家まで来てくださったことだった。

 小学校の先生になって最初に受け持ったクラスが、私のいたクラスだったO先生とは、特別なご縁があった。

 当時から、蝶や鳥が好きだった私は、友達数人と野山を駆け巡り、野鳥の空になった巣を見つけては、コレクションや研究?などしていた。学校に持っていって教室に展示しておいたら、O先生が指導してくださり、「理科展」という足利市内の行事に出品してくださった。それが見事銀賞に輝いた。

 今でも、当時と似たようなことをしているのは、O先生のおかげでもある。そのO先生が「直樹君、私より早く死んではだめよ!直樹君には弔辞を読んでもらわなくてはならないんだから・・・。」と、涙をこぼしながら言ってくださったのには、返す言葉が見つからなかった。

 検査をしに出かけたがんセンターからの帰り道、薄くなった記憶をたよりに、O先生の家を探し回った。運良く見つけることができ、上がりこんでは長々とおしゃべりをして帰った。

 学級崩壊など無縁な良き時代に生まれ育ち、点をとること以外にも大切なことを教えてくださったO先生やA先生に感謝している。

                         2007年 3月11 日掲載



春が花咲く




カボチャのプリン

 現在闘病中だということを知っている同級生のTさんから、一通のメールが届いた。私の病状を気遣い、Yさんと二人でお見舞いに行こうと電話したが、あいにくつながらなかった。そんな内容と、クラス会へのお誘いが書かれていた。

 彼女は、数年前、脳腫瘍の手術を受けたがすべて取り切れず、顔面半分に麻痺が残る状態でいる。このことは以前から私も知っていて、陰ながら心配や応援もしていた。

 自分の身に重い病気を抱えながら、私を心配してくれる。同病相励ましあう・・・。そんな前向きな姿勢に、私はクラス会への出席を約束した。

 両肺に転移したといっても、まだ癌は小さい。免疫療法剤の副作用で全身倦怠感はあるものの、ご飯も喉を通らない人に比べ私は軽い方だ。少し我慢すれば見た目は元気そのもの。

 久しぶりに会ったクラスメイトも、私の転移性肺癌という病気を知って最初のうちは驚き、心配顔で接してくれたが、二次会のカラオケにつき合い、マイクを持って歌い始めたら「田村君、本当に癌なの?」と信じてくれなかった(笑)

 Tさんも、どこも悪そうには見えず、「お互い信用されていないね!」と顔を見合わせ苦笑い。

 二月に入り、気の早い蝶が飛び出し、セツブンソウやフクジュソウの花も咲き出したというのに、また病気の話題を書いたのには訳がある。

 Tさんは、脳腫瘍の手術を受けたあと、あることを始めた。それは手作りの「カボチャのプリン」などを佐野市田沼町にある「道の駅」に卸しているということだ。大変な病気にかかると落ち込んでしまうのに、毎日作って持って行くという。そんな、生き方が私を勇気づけた。

 クラス会の会場で、そのことを披露したTさんに対し、クラスメイトは優しく反応した。「明日行って、三個買ってくる」「売れ残ったらみんな引き取る」・・・。酒の席でのお話だから、その後どうなったかはわからないが、応援する心遣いが私にもうれしかった。

 カラオケが終わってクラス会も解散となった。帰りはTさんとYさんが送ってくれるという。車の中には、私にと用意された「カボチャのプリン」が置かれていた。

                         2007年 2月18 日掲載



トンネルの先は春
 




老後の楽しみ

 「老後の楽しみ」・・・この言葉が身近に感じられる年令になった。私自身は、思う存分好きなことをやってきたので、あらためて老後に何か新しいことを始めようというわけではない。

 若いころ、私には多くの仲間がいた。数十人も集めては、尾瀬や足利のハイキングコースをたどったり、半月も前から準備をして手づくりの新年会をわが家で行ったりもした。参加者は、同級生だけではなく、後輩や兄弟、友達の友達、そして親たちも参加してそれらは行われた。

 その後、仲間も結婚、子育て、職場では責任ある立場となり、ごく一部の仲間以外、会う機会も少なくなった。最近になって、「退職したら、また楽しくやりたいね!」・・・そんな声が聞こえてきた。

 そうはいっても、あのころのようなパワーはもうないだろうから、盛大に・・・ではなく、ささやかでいい。高い山はもう無理だから、平地でもいい。気の置けない仲間と、おしゃべりしながら、のんびり山野草や鳥など探し歩きたい。

 仲間とのことばかり書いてきたが、少しは妻のことも配慮せねば・・・。なにせ私は、フリーアルバイターで自由に生きてきたのに、妻は働き通し。妻との老後も話し合わないと・・・。

 ここまで書いて考えた。私は現在闘病中。妻や仲間が退職するまで、もう四年ほど元気でいないと老後の楽しみ計画も立ち消えてしまう。何とかそれまでは生きていたい。

 新年を迎える前の十二月。がんセンターに入院中だった私が、談話室に行くと必ずいる男性がいた。同じ足利の人だった。サッパリした人で、入院中の奥さんのことを話し出した。

 「こうして一日中ここにいるのは、今日か明日にでも逝ってしまいそうだから」・・・。そう話す言葉には、もうどうしようもない、あきらめの気持ちがうかがわれた。そして話を続けた。「一月になれば年金が下りるのに、もらわずに逝っちゃうよ!」

 夫婦ともに、元気で老後を迎えることは簡単のようで難しい。

 免疫療法開始後、はじめての検査結果が近く知らされる。効果が確認できればうれしいのだが・・・。

                         2007年 1月21 日掲載



羽ばたく ノスリ




心豊かな闘病生活

 二年ほど前、腎臓癌(がん)の全摘手術を行うにあたり、「四季つれづれ」の執筆を降りたいと申し出た。そのときのデスクに「完全復帰までは書けるときに書いてくだされば何とかつなぎます。」と引き留められた。その後、定期的にコンピューター断層撮影(CT)検査など受けてきたが、毎回「異常なし」が続いたため、完治気分で最近まで書き続けてきた。

 ところが、八月末のCT検査で肺転移が見つかり、二ヶ月あまりの間で、大きさが倍になり、もう片肺にも転移が見つかった。

 腎臓癌の手術は辛(つら)かったが、さほど怖くなかった。これさえ取ってしまえば何とかなる!そんな、前向きな気持ちだった。肺への転移と知らされた今回の方が、ショックは大きい。

 最初の腎臓癌が原発癌で、肺に転移した癌は、転移性肺癌と呼び、肺癌ではないことを知った。転移した癌は腎臓癌の性質を受け継ぐ。効く抗がん剤はなく、放射線も効かない。

 十一月末から、しばらくの間、癌センターに入院し、免疫療法剤・インターフェロンの自己注射の方法を学び、副作用の程度も確認した。今は家で、週三回の自己注射をしている。効き目は15%前後。年明けのCTで効き目を確認する。

 以前、ここでふれたことのある山の友人N氏は、西洋医学を全否定し、医師のすすめた検査も治療も受けず、魅力的でもあるその頑固さを貫き、肝臓癌に倒れた。

 死の二ヶ月ほど前、上野の都美術館で開催中の公募展会場に、腎臓癌の手術をしたばかりの私を訪ねてくれた。一切、自分の病状は話さずに・・・。後から聞いた奥さんの話では、「田村さんが元気がないようだから、励まして来る・・・!」。そして、これが最後の外出だったと知らされた。

 気の小さい私はN氏とは違い、絵の仲間・蝶(ちょう)の仲間・山の仲間・幼なじみ・掲示板などで知り合った仲間などに伝え、応援団の励ましにすがろうと、虫のいいことを考え出した。各地からの温かく心強い声援を受け、心豊かに闘病生活を続けている。

 なんだかインターフェロンが効くような気分になってきた。

                         2006年 12月24 日掲載



大空を飛ぶシラサギ 




蝶の一生と越冬

 今年は、十一月の初旬あたりまで暖かい日が続いた。北海道の平地や、日光連山などから雪の便りが届くころになると、平地の気温も一段と下がる。そして、空っ風と呼ばれる乾燥した風が吹きつける。「赤城おろし」は地元足利の風物詩。

 つい最近まで、カメラ片手に蝶を主に探していた私は、冬の到来で蝶の姿もほとんど見かけなくなり行き詰った。

 ところで皆さんは、蝶はどのような形で越冬しているのかご存知だろうか?

 答えを書く前に、蝶の一生を説明しよう!

 まず、交尾をすませた母蝶が「産卵」する。そして卵からかえる「孵化」。孵化した幼虫は四ー五回「脱皮」しながら成長し、やがて「蛹」となる。そしていよいよ「羽化」し、美しい蝶が誕生する。このような形をとるものを完全変態と呼ぶ。

 一年に一回発生するものと、二回のもの、三回発生するものもある。高山蝶の中には羽化までに三年もかかるご苦労な種もいる。

 さて越冬だが、その種によって越冬態は異なる。皆さんご存知のアゲハチョウは年二回発生し、蛹で越冬する。同じアゲハチョウ科にもかかわらず、ウスバシロチョウは卵で越冬する。国蝶オオムラサキは三令(さんれい)幼虫(蛹になる途中の小さな幼虫)で越冬する。残るもう一つの形は成虫のまま越冬するキチョウ、ルリタテハ、ウラギンシジミなどなど。

 つまり、蝶は成長過程のどの形でも越冬している、ということだ。冬の間、木の枝や冬芽、幹などに産卵された小さな卵を探しに行く物好き?もいる。

 成虫越冬する蝶の中には、暖かい日差しに浮かれて飛び出してくるものがいる。一昨年は十二月二十九日、佐野市・みかも山公園でムラサキシジミと出会った。真冬のご対面に、撮影仲間ともども大騒ぎ!ごく普通種でも大切に撮ってあげた。

 しばらくの間、成虫と出会うのは難しいが、枯れ野や山際のどこかで、ひっそりと春を待つ幼虫、卵、蛹、そして成虫の気配を感じながら、人間のこの私も、必ず来る希望に満ちた春を待つ。

                         2006年 12月3日掲載



みかも山のムラサキシジミ




侮れない観天望気

 高校時代、山岳部だった私は雲に興味を持った。なぜなら雲の種類により、ある程度天気が予想できるからだ。毎日教室の窓から空を見上げては自分なりの天気予報を出していた。今でも、外に出るとまず雲を見るのが習慣になっている。

 春や秋、移動性高気圧と低気圧が次々にやって来る場合、天候も交互に変わるので、雲の形(十種雲形)を覚えておくと予想がつく。

 たいがい、天気が崩れる場合、高い雲から現れ、次第に低い雲に変わって行き、やがて雨となる。絹雲・絹積雲・絹層雲・高積雲・高層雲・乱層雲、こんな順番で。

 今年の秋山では遭難が相次いだが、なぜあんな日に行動したのか疑問に思った。秋と春は崩れると真冬並になるので、装備が充分でないと体温が下がり遭難する。私たちのパーティーも、天候悪化のため、二度ほど停滞したことがある。

 昔の人は、天気予報などなかったから、農作業をしたり、漁に出る場合など、雲や夕焼け、風や虹などの自然現象から天気を予測した。このことを「観天望気」と呼んでいる。地方によって驚くほどさまざまなことわざが残っている。

 「夕焼けの翌日は晴れる。」「朝焼けは天候の崩れる前兆。」「星がしげくまばたくと風が強くなる。」・・・。もっと紹介したいが、きりがないからこれくらいにしておくが、なかなかどれも興味深く、先人たちの観察眼や知恵に驚く。

 今では、テレビをつければ、1週間分の予報が見られる。また、インターネットで検索すると、市や町単位でも見ることが出きる。こうなると、ますます空を見上げて雲を観察する、なんてことはしなくなる。

 長い長い間、人間は自然と共存してきた。季節の変化や明日の天候を、目や肌で感じ、それをもとにどう行動すべきか自ら判断してきた。今では情報があふれ、考えなくても、お手軽に何でもわかったような気分になってしまう。自然から学んだ人間の知恵が風化する。もったいないことだ。

                         2006年 11月5日掲載



渡良瀬川の土手と高積雲




夕焼けへの思い

 晴れ渡った秋空を見上げれば、もう積乱雲は見つからず、高積雲や絹積雲など、さわやかな秋らしい雲が広がっていた。雲を見るのが好きな私は、気に入った雲を見つけると必ず撮影に行く所がある。

 家並みや、電線が入っていてもそれなりの感動は受けるのだが、ならば故郷の川=渡良瀬川の土手から三百六十℃に広がる大きな空が見たい。

 足利は夕焼けの美しい町。森高千里が作詞し、自ら歌ってヒットした曲「渡良瀬橋」の中にも、こんな歌詞がある。「二人で歩いた街 夕日がきれいな街」

 足利はまさにこの歌詞どおりの町。あいにく、私の場合、夕日が燃える中を二人で歩いた・・・、なんてロマンチックなことは一度もなかったが・・・(笑)。

 渡良瀬橋から見る夕日も美しいが、私のお気に入りは、もっと下流の福猿橋付近。まさに広い空と遠くの山々が見渡せる開放感あふれる好ポイント。南に連なる山々の上に富士山が顔を出し、西には赤城山の雄大なすそ野が広がる。背後には袈裟丸山から足尾、日光連山が望める。

 雲を撮ったり、水辺の鳥を撮ったりしていると、やがて夕暮れ時が迫り、川面には太陽の光がキラキラと輝きだし、オギやヨシの穂が逆光の中、風に揺れる。今日はどんな夕焼けが展開するのか、刻一刻と変化する空をまた見上げる。

 土手の向うの町並みや遠くの山々、河川敷に放置されたゴミや、破壊された自然も、しばしの間シルエットに変えてしまい、太古から変わらないような不思議な時が流れる。何でこんなに雲や夕焼けが好きなんだろう!私はだいぶ前、自分なりの答えを見つけた。

 過去に生きた人々も見たし、これから生きて行く人々も見るであろう、浮かぶ雲の姿や、暮れ時の一瞬に、私は「永遠」を見ているのだろう。

 永遠はあこがれ、不変は望み。どちらもかなわないこととはわかっているが、土手の上に立ち、川風を体に感じながら、しばし時空を超えた夢を見る。

                         2006年 10月15日掲載



福猿橋付近の夕焼け




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