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                  カラスウリ 


                      ( 2003年 9月26日〜


上が新しく下に行くほど過去の文章になります。

 
JBC山岳会の思い出

今年の5月14日、私にとって大事な人を亡くした。私が20代の頃、
Nさんら一行は蝶ヶ岳山荘直下のお花畑のある登山道脇で、優雅に本格的なコーヒーを落としていた。その香りに誘われて、声をかけたのがそもそもの始まりだった。「一杯いかが!・・・」という快いお誘いにのって、格別な味のコーヒーをご馳走になった。それ以来、何度も山行を共にした。私より10歳ぐらい年上の頼れる先輩だった。

 今年(2005年)の3月13日、私の所属する汎美術協会の展覧会に上野の東京都美術館まで見に来てくださった。前年の11月に私は腎臓癌の手術をした。大事な時に自分の話ばかりしてしまった。Nさん…少し痩せたかな?と思ったがその時重大な病をおして見に来てくれたことに気がつかなかった。いつもなら、帰る途中、一緒にちょっと一杯やるのが毎年の美術展に来てくださった時の常であったが、この日は「帰ります」と言って一人早く会場を立ち去った。

 夏になり、隣町・佐野市がおいしい梨の産地なので、思いついてNさんに梨を送った。その後奥さんからお礼の電話がかかってきた。妻が電話に出たのだが、5月14日に亡くなったと言うことだった。私はそれを聞いて愕然とした。奥さんが言うには、「誰にも話さないで…」と本人が言うので知らせなかったと言う。私と上野で会ってわずか2ヶ月後だった。辛い体で最後に私に会いに来てくれたのだと思うと、胸が熱くなった。なんでいい人ばかり、早く亡くなってしまうのだろう。明治寺の草野さんも、あんなに若いのに逝ってしまった。草野さんはJBC山岳会の会員ではなかったが、「会報を送ってくれ!・・・」といって、手書きの会報を楽しみにしていてくれた。青春時代の思い出を共有した大事な友人の死に、心の底から哀悼と感謝の意を表し、久しぶりにここに書いてみた。



 以下に、JBC山岳会の発足の経緯や登山したコースなどを記しておく。、

 JBC山岳会は、いまから三十年前の1975年夏、北アルプス裏銀座コースのブナ立尾根(日本三大急坂)をヘトヘトになりながら登っていた個性的な単独行の人や、少人数の仲間での登山者達計13名によって産声を上げた!

  同じ縦走路を追いつ追われつしているうちに、いつしかお互いに話を始め、辿り着くその日の山小屋では様々な話題が飛び出し束の間の交友を深めた。そして、最後の宿、槍ケ岳山荘前からそれぞれ予定のコースへと消えていった。燕岳へ穂高へ槍沢へと・・・・・。

 お互い写真を撮り合ったこともあり、代表して私が住所録を作成して各地へ郵送する事にした。その際、冗談で「JBC山岳会会報」の形をとった。

 しばらくすると、日本の各地から手紙が次々に届き会報の号数は瞬く間に増えていった。また来年もご一緒に登れたらいいですねえ・・・と誰からともなくそんな声が出、果たして翌年の夏山には九州、広島、東京、栃木から新会員も加わって総勢14名も集まった。

 再会登山は蝶ヶ岳から常念岳、槍・穂高連峰を縦走して岳沢を上高地へと下った。それから毎年合同登山は繰り返され、孤独な?新会員も次々に加わり総数、数十名に達したこともあった。

 日本各地に会員が増え 北は青森、宮城、栃木、東京、千葉、神奈川、静岡、新潟、京都、大阪 
                                   広島、熊本、鹿児島と広がって行った。  
          
 主な合同登山先は
*裏銀座縦走・ブナ立尾根ー烏帽子岳ー野口五郎岳ー双六岳ー 槍ケ岳

              *蝶ヶ岳ー常念岳ー大天井岳ー東鎌尾根ー槍ヶ岳ー穂高連峰ー岳沢ー上高地

              *飯豊連峰主脈縦走・・地蔵岳ー飯豊本山ー御西岳ー北股岳ー          
000000000000000000000000000000000000000000000扇ノ地紙ー飯豊山荘
              *九州・・・傾山・祖母山縦走

              *太郎平ー雲の平ー高天原ー双六岳ー笠ヶ岳ー杓子平ー新穂高温泉 

              *広河原ー大樺沢ー北岳ー間ノ岳ー農鳥岳ー奈良田温泉  
       
              *朝日連峰主脈縦走・・朝日鉱泉ー小朝日ー大朝日-竜門山ー以東岳      
00000000000000000000000000000000000000000ー大鳥池ー泡滝ダム

              *立山・剣岳縦走・弥陀ヶ原ー立山ー剣岳ー仙人池ー黒部水平歩道ー欅平 
 00000000000000この他に各支部での山行が繰り広げられた。

  今では、活動は各自思い思いに行っているが一時は、各地の山々に、ユニークで愉快なJBC山岳会の仲間達の爽やかな笑い声がコダマした。

(その時の会長より)

                           2005年 10月24日 記 


(注) JBCとは、JAPAN(日本)のJ・・馬鹿のB・・クラブのCの略。 馬鹿は「うましか」と読む。
馬鹿と呼ばれるほど山が好きで、お人よしな人達の集まりという意味の他、歩く力は馬の如く逞しく、その足取りは鹿の如く軽やかに・・・という、まともそうなこじつけの意味もある?(私が勝手にそう思っている)

   
手書きの日本馬鹿連合山岳会会報                 一緒に登った北アルプス・・・奥穂・涸沢岳・北穂
(略称 JBCまたは馬鹿連)






クロアゲハ

 久しぶりにここに書く。もうすぐ7月。昨年(2003年)の7月22日には辛いことがあった。長い間奥さん共々親しくしていただいた百観音明治寺の草野榮應氏が、50歳だったか、そんな若さで亡くなってしまいその日が告別式だった。いい人はたくさんいるが、あんないい人は滅多にいない。仏教なんて聞くと難しそうだが、話が面白いし内容がわかりやすい。冗談も得意でよく言い合ったものだ。

 草野さんがいてくれるだけで、私の何かを理解してくれていただろうなあ・・・!と勝手に思っていた。「馬鹿なこと言っていても本当はまじめなんだぜ!」「そんなことわかっているよ・・・」あれから彼のことをなんど思い出したことか。

 彼の掲示板に以下のようなやり取りがあった。これを彼が亡くなったあとに読んだとき涙が止まらなかった。

無題 投稿者:住職投稿日:2002/12/11(Wed) 11:43  
※樹木について、先代(祖母)はこのような思い入れをいだいて
 おりました。これがある限り、緑を大切にしなければならない
 のであります。これは空襲の焼け跡の中で、書かれているので
 すじゃ。   

  道端の樹             草野 昌悦

        (昭和24年8月号 雑誌「サラの集い」所掲)

     私は道端の樹

     道ゆく人が疲れては休んでゆく

     やおら樹にもたれて 煙草を出して吸いもしよう

     雨に打たれ風にさらされ、ようよう辿りついた

     この道端の樹の

     別に美しい花も咲かず おいしい果実も落とさないが

     お気がねなく休んでください 追いたてはしません



    私は道端の樹

    長い行路にやつれた人が わが悲しみのうたを唄う

    樹は小さい實をひとつポトリと落とす

    フト見上げたその人は

    樹の上の廣いひろい空を見つけて

    余り小さい周囲に縛られた 自己を見出し

    心ひろやかに息をして

    又明日への旅路にいで立つ

    ご遠慮なく休んでください 追いたてはしません



    私は道端の樹

    道ゆく人が疲れては休んでゆく 

    立ち寄っては話をして行き 名を刻みつけては立ち去る

    なつかしい人よ

    私は美しい花も咲かず

    おいしい果実も落とさないが

    夏は風涼しく 冬は陽あたたかい



    来たり語っては 立ち上がり 

    立ち寄りては字を刻みつけた人々よ

    やがておん身も この道端の樹となって

    夏は風涼しく

    冬は陽あたたかく

    涙する人生にやさしい唄をうたってあげてください

    この世に大きく蔭おとされし

    佛陀(おんきみ)のみ名をし 憶えば

 その詩を読んで下のような書き込みを私がした。
[ No.367 ]  投稿者:NAOKI投稿日:2002/12/12(Thu) 17:02  
自然に種が落ちて生えた木も、人間が植えた木も、人が成長するのと同じように時の流れとともに育ち、欅は欅なりの美しい形になり、銀杏はどっしりとした大木となり秋には黄金色の葉を落とす。

それらの木々は四季折々に、人間の生活の背景の中で無言ではあるが安らぎや、励ましを与えてくれる。何人もの人々がその木陰で心地よく休んでいったことだろう・・・

樹の中で今も、樹を植えた人の控えめな優しい思いが絶えることなく生き続けている・・・そう思うとき、そうやすやす一本の木を切ることは出来ませんね。

私の名前には樹の字がつくのですよ・・・


[ No.368 ] Re: 樹 返信者: 住職返信日:2002/12/13(Fri) 11:07  
Naokiさんの木陰で憩うと、たくさんの瑠璃色のチョウたちが葉裏に
憩っており、
そして爽やかな山の風が吹き、しばらくするとコツンと味わい深い
駄洒落が落ちて、
上を見上げると広いひろい空が広がっている…
それも、素敵ですね。

不思議なことに、告別式の日、明治寺の境内を二頭の美しいクロアゲハが、長い間二頭寄り添ってゆっくり舞って、百体以上ある観音様の方に飛んでいった。

(注)故・草野さんは さだまさしさんと親しく、彼のサイン入りのCDを奥様からいただいたが、その中に「永年の友人でもあり、僕を支えてくれる最大の理解者の一人であった。」と書かれていた。

その後、何年か過ぎ、さだまさしさんが奥様と約束した明治寺の「献灯会」がCDとなった。
http://www.youtube.com/watch?v=nwLaRwfe5Wg  
「献灯会」で検索するとyou tubuで聴くことができます。


百観音 明治寺 ホームページ
http://www.meijidera.com/

なお、7月12日(火)故・草野さんの書かれたひとくち伝言集「やさしい言葉」が出版されました!素晴らしい内容です。是非お読みになってください。購入方法はホームページを御覧下さい。



                           2004年 6月24日 記 



  
告別式の日、いつまでもクロアゲハが二頭寄り添って境内を飛んでいた。

 





虚脱感


 好きなことをやっている私が正月早々こんなことを書くのは引け目を感じるが、近頃何となく閉塞感、虚脱感に囲まれ元気が出ない。歳のせいもあるだろうが身の回りが、イラクへの自衛隊派遣、大不況下・地元足利銀行の地銀再編を急がせるための見せしめ国有化・・・等々、気の重い話題に満ちている。

 前にも書いたが、国民の誰しも戦争などしたくないと思う。上に立つ人間数人(一人の場合が多い。キムジョンイル・ブッシュ・シャロン・オサマビンラディン・フセイン・小泉など指導者と呼ばれる人間)の意向でどんどん悪い方向に進んでしまう。

 山道で道に迷った場合、あまり歩かず元のところに戻る・・が鉄則だが、この国は、戦後続いた平和な道も、民意を託したはずの先導者のあとを歩いているうちに、いよいよ元には戻れないところまで進んでしまったようだ。この前の選挙が分かれ道だったがもう遅い。この先には、滝や崖が待ち受け、動けば動くほど危険で命取りになる。(かもしれない?)登山では先頭を歩くリーダーが一番あとからついてくるサブリーダーの意見を聞いて、コース、ペースなど決める。リーダーの独断では遭難だってあり得る。夏山ならまだしも、デフレ不況下でのいわば、厳冬期である。一つの判断ミスが命取りになる。

 平和憲法・戦争放棄と昔学校で教わった。たとえ敵が攻めてきても放棄なのだから闘わない。私はやられて死ぬだけだ。それでも良いと思っている。私には人間は殺せない。

 一部の大企業は好決算などと言ってはいるが、地方の零細・個人企業は深刻だ。税金をあんなことに使わず、足元の弱い国民のために使って欲しい。

 それでも新年は穏やかな初日の出と共にやって来た。泣き言ばかり言っていたのでは暗すぎる。我々庶民は今日を生きることしかない。ならば、せめて大きな目を開けて、かけがえのないこの地球のわずかな一部でも、よく見ておこうと思う。そうするより仕方ない。

                           2004年 1月1日 記 

 
 雪の日 キジバト





表現



 自分の考えを表現したり思考する際には言葉で考え、その思いに近い言葉を探し言葉で理解し納得する。ろくに本も読まず先人の努力によって表現された的確とも思える言葉にも、さして興味を示さずに時が流れたそんな私が、舌足らずではあるが今までこの随想のページにいろいろ書いてきた。

 しかし、言葉に表せない多くの思いは、書かれた文章の何十倍、何百倍もこの小さな頭の中には詰まっていると思える。そんな思いをうまく表現した他人の文章を読んだり、聞いたりすると「その通り・・・」と表現のうまさに感心し、自分の語彙・表現の稚拙さを思い落胆もする。

しかし、言葉で表現できないその人の奥深さを、仕草や行動やたった一言から感じられることもある。ある人が話した話と全く同じ話を別の人が話しても同じように心に響かないことがある。説明の付かない力、表現、無言の時間から受ける感動もあるだろう。

 必ずしもOO家と呼ばれたりOO長とかいう肩書きがつかなくとも、また、形として残らなくとも、一人の人間の豊かさには変わりない。

 青空を見て、青空に浮かぶ雲を見て、涙することもあれば心和むこともある。うつむいてその青さに圧倒され落ち込むこともある。また遙かな思いを抱くことも出来るが、そんな思いをうまく表現できずとも、流した涙や、心の昂揚は言葉や表現を越えている。・・・そう思える。

 私としては一枚の絵がうまく描けなくとも、自分の思いだけは自分が一番良く知っている。うまい答えが見つからなくともそれで良いと思える。

                      
       2003年 10月25日 記

 
  夕暮れ時




しばらくぶりに



 長い間随想を書かないでいたら、北海道の大学に行っている長女から
メールが届きました。私のHPを見てくれている長女の友達から、「お父さん随想書いていませんねえ!」というようなことを言われたというのです。

 そうか! 楽しみにしてくれる若い読者?もいるのだと妙に感激してしまい、この新しいページを準備しました。

 言い訳になりますが、プロバイダーと契約した容量が一杯になり、少しでもアップするとすぐパンクしてしまい身動きがとれない状態が続いたのです。その後やむなく10メガ増やしました。蝶などのページは一気に増やしたのですが、文章書くのは得意でないので怠け癖がついてしまいました。

 近頃、自分を含め身近な方々の健康について考えることが多いです。経験したこともない大不況に見舞われ、体だけでなく精神まで疲れた方々が多いように思います。二極化が進み、既に退職し貯蓄もあり年金ももらえる安泰組?と先行きの見通しがたたない我々と同じ団塊組。ことに地方の自営業は最悪です。

 いくら考えても良い答えが出ないので余計暗くなってしまいます。企業があのようにきついリストラを実行中?ですので、各家庭も大胆なリストラが必要と思います。

 まず、子ども達にこの不況の底の見えない現実を理解させ、各家庭の経済状態をもきちんと説明し、厳しいならその自覚を親子で共有し生きさせることです。

 漠然と今だ点数を一点でも多くとり、少しでもブランド力の高いところに入れば何とかなる・・・そんな暢気な考えをあらためさせることです。親が一生かけて蓄えた貴重なお金を、当たり前のように学費その他に使ってしまい、たいした勉強もしないで卒業・・ではいずれ共倒れ・・そんな悪い想像もしてしまいます。

 生まれた時代によってだいぶ運命にも差があるものだと思います。我々の育った時代はいくらでも就職口がありました。今はしたくても無いのですから子ども達もかわいそうです。こんな時代を乗り越えるには、すべての基本である家族の一人一人が我慢をし助け合うことが第一だと思います。健康に注意して皆さん頑張りましょう!

                               2003年 9月26日 記  

 
   トチノキとヤマブドウの紅葉



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