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                  足尾・銀山平への道・冬


                      ( 2001年 10月29日〜2003年 1月4日


上が新しく下に行くほど過去の文章になります。





無にはならない


廃屋を撮影して私のページにアップした。朽ちかけた茅葺き屋根の家に今はもう人は住んでいない。ぐるりと家のまわりを回って壁や窓や屋根などをのんびり眺めた。時を経て、もう充分役目を果たしたのだろうが、家に限らず古くなって壊されたり、捨てられるものには人間が触れた長い時間かかって出来た染みや傷や、風化して褪せた落ち着きのある色がある。老人の顔や手に刻まれた皺のようなそれらには、こころざし半ばで退場を勧告されたやりきれない思いや、もう十分だという安息や諦念も入り交じる。

そんなもの達を撮影したり、絵のモチーフにしている私は、それらのものと自分を、同じくこの世に存在しているものとして比べてみる。山に登り蝶を追いかけ写真も写し絵も描いたが、思いの何割も納得できないまま年を重ね、あちこちガタも出始めた。やがて、捨てられはしないが、もう少し何かの役に立てたのではとか、努力が足りなかった、もっと健康であれば・・・などの言い訳や反省を残し幕を閉じる日も訪れる。

昨日(1月3日)、北アルプス八方尾根から唐松岳への道で、私の古い山仲間が遭難死した。突然のテレビの報道に驚いた昔の山仲間から一報が入った。少しの時間を経て、間違いなく私達の元山岳会に一時籍をおき、行動を共にした青森の仲間であることが判明した。このことを機に昨晩はいろいろ考えた。ある掲示板の仲間からも、いろいろ死について考えをお聞きした。肉体は消滅したように思えても物質的にはその表現を変えただけ・・・・亡くなった方の幾多の思い出が心の中に在る限り、それはある意味生きているといえる・・・・そんな考えをお聞きした。

また、身近で大切な人の死に遭遇したり、自分の体が衰えたり、病気と共に暮らすようになり「死」と言うことを意識してこの世の中を見渡せば、今までと違って花も蝶も鳥も雲も感動的に見えてくる・・・そんな風に捉えることが出来るとも思う。そんな私の思いとも共通する意見も聞いた。

彼女には会ったこともない多くの方々から、その掲示板に書き込んでいただいた死に対する考えや、彼女への哀悼の言葉の数々を私からの彼女へのプレゼントとし、彼女のこの世に生きた事実をもう一度確認したい。

形あるものがたとえ消滅してもけっして無にはならないと思う。仲間の死は辛いが、23年前彼女に会った日のことを含め、私の心の中に永遠に生き続けることだろう。彼女のご冥福を祈ります。

                                     2003年 1月4日 記


  
    一番右側が私、その左が遭難した彼女(1982年7月23日(金)立山稜線)



母のこと

 
ある掲示板にこんな書き込みがありました。

  >娘にとって父の存在は異性の頂点だと私は思っています。

 私は、これを読んで、息子にとっても母の存在は異性の頂点だと思いました。

  母親以外の異性では・・・普通、妻がその次に位置するのでしょうが、やはり、幼い頃からお互い身近にいたわけではありません。結婚相手とは、ドライな言い方で言えば、一つの契約で成り立っているとも思えます。相手がひどい契約違反を?すれば、違約金(慰謝料)を取られたり取ったりして、解約(離婚)もあり得ます。・・・・これは私のことではありません。一般的な話です。
 
そんなこともあり得るからこそ、お互い意識して大切にしようと努力もします。また、多くの異性の中から様々な偶然が重なって出会い、共に歩もうと誓い合ったのですからなおさらです・・・・

 
ところが、母親には努力などせず自然体で、文句も言えれば、言い合ってもまあ・・そんな親であり子供であるとお互い承知しているから険悪にもなりません。唯一、遠慮なく言いたいことが言える異性(女性)なのです。

 記憶にはなくても、生まれたときから相思相愛で、肌をふれあい抱きしめられ、甘え、泣いて相手を求めたり、機嫌が良ければ最高の笑顔もふりまいたのです。
  
 妻と言い合うと、言い過ぎたかな・・とか、このまま謝らないと逃げられる?・・・
・・・まずいぞこれは・・・早く修複しょうなんて、努力もします。でも母親には謝ったりしません。頭のどこかで壊れないと信じているのかもしれません。妻とは、良い関係でいよう・・・と確認しながら生きているのです。

  私の父が亡くなってから34年も経ちます。私は長男で同居の母とは何度か言い合いもしましたが、長い間様々なことを母と二人で考え解決してきました。そんな母が5年前に、筋萎縮性側索硬化症であっけなく発病後3ヶ月で他界してしまいました。いわゆる球麻痺と言い、普通最後に出る症状がいきなり出て、水も飲めず、次第に声が出なくなり歩くことも出来なくなりました。長期戦になる覚悟でいろいろ準備していたのですが・・・・胃婁(いろう)と言う、外部から栄養を補給するための手術をした翌日、私が、1時間ちょっとかかる自治医大病院から家に戻る途中危篤状態になり、連絡を受けすぐまた引き返し集中治療室に駆けつけました。私が駆けつけて5分後に心電図の波が平らになりました。

 その日だったか、前の日だったか、私は母が体を拭いてくれと筆談で言うので、ベットのまわりのカーテンを引き、上半身裸になった母の背中を拭きました。何十年ぶりかで親子の肌が触れあったのでした。私は何かを確かめるかのように、丁寧に母の肌をたどりました。その背中から万感の思いであふれるほどの温もりを感じました。

 私の父が34年前に亡くなったとき、1日前だったか集まった身内のある人が、「もう長くはないだろう」・・と父の枕元で言ったのです。それを聞いて私はいやな思いをし、そのことがずーっと忘れられませんでした。きっと父に聞こえただろう・・・・「もう長くはないだろう」と言われた父は辛かったに違いありません。

 その後、私は新聞だったか何かで次に書いたようなことを知ったのです。臨終間際の病人も話は出来なくても、耳は鼓膜が振動さえすれば聞こえるのだと。呼吸をして息を吐き声帯を震わし声を出すのと違い、ただ横たわっているだけでも絶対聞こえるはずだ・・・と。

 病院に駆けつけた私は、話どころか身動きすら出来ない母に向かって、大声で、「もしも聞こえていたなら、私の指を握り返してくれ!・・と言いました。母の結んだ手の中に差し込んだ私の指を、最後の力で母は確かに握り返してくれました。・・やはり聞こえたのです。そしてその後すぐ息をひきとりました。

 私は、最後に会話が出来たと信じています。皆さんも、大切な人が最期を迎える時が来てしまったら、大きな声で、楽しかった思い出を語ったり、感謝の気持ちを伝えてください。きっと聞こえるはずですから・・・・

                                   2002年 11月10日 記


 
    
            果樹園をしていた頃の母                私と弟と母     


うさぎ追いし・・


 私の住む周辺も、だいぶ宅地開発で変わってしまった。昔は、周辺1キロメートルぐらいに住んでいる人の顔ぐらいは私でもわかった。親たちはかなり離れた家でも「どこそこのOOちゃんち・・・」なんて呼び知っていた。今では隣に住む人ともほとんど顔を合わせない。

 山に囲まれた小川の両側に何代も続く古い家が点在し、その後徐々に越してきた人でも次第に近隣と溶け込み顔見知りとなったが、いつの頃からか一気に新しい方々が増えてからは挨拶もあまりしなくなった。車社会になったのですれ違いざまに出会うだけだからだろう。

 一軒あたりの子供の数が多かった私の少年時代・・・付近のおばさんやおじさん達は(その当時幾つだったが知らないが)私のことを「直樹ちゃん」と呼んでくれ、大人になってからも変わらず「直樹ちゃん」だった。そんな私のことを幼いときから知っていてくれた人たちが、一人また一人と消えて行く。つい先日、ゴミステーションに生活ゴミを出しに行ったら、本当に久しぶりに昔から直樹ちゃんと呼んでくれるおばさん(今は相当なおばあさん)に会った。耳が遠いが昔話が始まり20分ぐらい話していただろうか・・・

 幼いときからの同級生もそうだが、自分の原点や歴史を知っていてくれる人がいることは、一人で生きてきた訳ではない・・・そんなことを感じさせてくれありがたく思う。

 私の父は私が高校を卒業した年に他界した。既に34年にもなるが、父のことを覚えていてくれ、「直樹ちゃんのお父さんはこんな人だった・・・・」なんて言ってくれる人もほとんどいなくなった。


              
                   2002年 11月3日 記     

       
  
  今はなき茅葺き屋根の我が家             綿羊がいた頃の私




在庫整理

 4〜5日前に新しく「在庫整理のページ」というページを作った。HPを開設する以前は趣味で撮っているだけだったので、ポジフィルムを使って何本もバチバチと撮ることは出来なかった。フイルム代や現像代など考えると、もう少し撮りたくても諦めざるを得なかった。ところが、近頃は撮影に出かけるとかなりの枚数を撮るようになった。原因はデジカメがメインになったからだ。充電さえすれば何百枚でも撮れる。お代を気にせず気楽に撮れるようになった。気分はプロカメラマン?・・・・

 
そんなわけで、在庫が貯まりだした。せっかく撮影してもアップするタイミングがずれ季節が通り過ぎてしまったとか、似たような構図だけれど捨てがたく削除できずにしまってあるもの、多少構図やピントなどに問
題はあるものの・・・・でもせっかく撮ったのだから皆さんに見てもらいたい。・・・本当は自分自身も自分で撮った写真の晴れ姿?を見てみたいのだ。フォルダにしまってあればいつでも見られるが、撮影時の思い出などを添えてHP上に載せてやると、急に写真が生きたように光り出す!?・・・そう思うのは本人にのみかも知れないが、そうしてやりたいのだ。

 しかし始めだしたらこれがけっこう忙しい。一枚削除、一枚追加。翌日までに選んで何かちょこっとでも書いてアップする・・・・在庫がどのくらいあるのかわからないがやれるだけやってみようと思う。

 今日は、仕事が終わってからいつもの田沼町飛駒まで出かけた。熟れた柿の実にキタテハやアカタテハ、ルリタテハ、ウラギンシジミなどが訪れていた。デジカメが今年3回目の故障で手元にないため、ポジで撮ってきた。そんなわけで皆さんにその成果をすぐにはお見せできない。今日見た蝶の中では、クロコノマチョウが珍しい。最近温暖化の影響で見られるようになった蝶だ。それからツマグロキチョウ一頭、この蝶は本来、河原や荒れ地に生えるカワラケツメイを食草としているのだが、食草のない林道脇などで秋になると良く見かける。それも一頭のみのことが多い。発生したところからけっこう離れるらしい。今咲いている花ではアキノノゲシ、コセンダングサ、シロノセンダングサ、アキノタムラソウ、ユウガギク、ツリフネソウ、オトコエシ、ナンテンハギなどが目立った。またセイタカアワダチソウが咲き出した。この花がいっせいに咲き黄色く埋め尽くす光景は、何とも言えず複雑な気分だ。アレチウリなど帰化植物が幅を利かせている。

                                  2002年 10月5日 記

   
          
ナンテンハギ




初秋の里山で

 私の所属する絵画団体の会員展が昨日終わった。しばらく野外に出なかったので家で飼育中のミヤマシジミの幼虫に食べさせるコマツナギが足らなくなった。補充がてらいつもの林道を辿った。久しぶりの野山はすっかり秋の風情だ。民家の庭にはキバナコスモスやヒャクニチソウ・ホウセンカなどが目立ち、畦道や土手にはスルボの薄ピンクの花が咲き並んでいた。ヒョウモンチョウの種類が再び舞い始め、林道脇の萩の花にはキチョウがまとわりついていた。


 山寺の参道脇に咲く花に無傷の美しいカラスアゲハの雌を発見した。急いで車を降り近づきカメラを向けるとヒラリと反転して黄金色の田んぼの彼方に飛び去った。私はしばらくその姿を目で追った。写すことができたらさぞきれいな写真になっただろう・・・あの雌がどこかに飛んで行きこれから多くの卵を産んでくれることだろう・・・
そんなことを考えながら山裾の方を眺めていた。撮影できなかった悔しさはなかった。

 ここ田沼町飛駒周辺の畑には、今、蕎麦の花が満開だ。気の早い彼岸花も咲き出した。細い道をのんびり走っていると、おばあさんが草刈りの合間に休憩をしているらしく、麦わら帽子を深めにかぶり、うつむき加減に小さくなって座っていた。写真でも撮れば感じの良い写真になったかもしれないが、車から降りて「撮らせてください」とは言えなかった。あたりの田畑の周りはきれいに刈られている。80歳は越えているだろうそのおばあさんが、年に何回となく刈っているのだろう。

 美しい里山の豊かな自然は、こういった人々に支えられて存在している。「ご苦労様・・・」お陰様でよそ者の私たちが出かけては「この辺はいいよなあ・・・」なんて言えるのだから・・・

 垣間見たおばあさんの横顔がどことなく亡き母や隣の伯母さんに似ていたような気がした。母と二人で、雑草に文句を言いながら良く草刈りをしたものだ。草刈りと言えども決して楽な仕事ではない。刈ってもすぐまた生えてくる。

 上流に向かって車を走らせた。青空と一面に黄色く実った稲穂が眩しい。先日足利では珍しいモンキアゲハを撮影した大きなクサギの花は既に散っていたが、その先のポイントに咲く花は少しばかり残っていた。その花にカラスアゲハの雄が2頭訪れ、翅を震わせてながら元気に吸密していた。

 突然、一頭のカラスアゲハの動きがピタリと止まった。何事が起こったのか・・・・! よくよく見ればオオカマキリがその鎌でしっかり抱え込んでいた。このオオカマキリはここで何時間待っていたのだろう・・・狩りはたったの一撃で終わった。そのうちムシャムシャ食べ始めた。これが日常なのだろう。食う方も食われる方も声一つあげはしない。青空だって食われる前と同じ色・・・・

 ジイソブ・シラヤマギク・オトコエシなどを見つけ、またキョロキョロしながら引き返した。

                                  2002年 9月12日  記

   
                    
スルボ             カラスアゲハ食われる




移ろい


 一週間ほどの間に同じ場所に2度行くと季節の移ろいをしみじみ感じる。花のページを2ページ更新したのはつい5日前のことだった。田沼町飛駒・・・・年に何度となく訪ねるお気に入りのフィールドで花3、花5のページの花たちは撮影した。

 昨日、蝶の食草を探しがてら同じ道を辿れば、道端一面に咲いていた真紅のキツネノカミソリの花びらは既に色褪せ、先端に種のついたものが多かった。青紫色が新鮮だったあのツリガネニンジンも花びらの一部が薄茶色になりしぼんでしまった。栗林の下に群生していたクルマバナ、点在したワレモコウはきれいに刈られてすでにない。

あんなに暑かった今年の夏も盛期は過ぎ、今日は一枚何か上に羽織らないと寒いくらいだ。
また暑さがぶり返すとは言え、もう35度C以上の日々が続くことはないだろう。空には赤とんぼが群れ、蝉は長い辛抱の後、地上に出たうれしさに猛暑も何のそのとばかりに鳴き叫んだけれど、今はもうほとんどの蝉が土と化した。あるものは根を残し、また種を結び、虫たちは卵を産み落とした。

 巡り来る翌年の夏が本当に来るのか疑うものは無い。ただそのようにせよと、草や虫たちの体内のどこかで、そう決められているだけのことだ。ふと、亡き父や母を思った。

                                  2002年 8月23日 記

  
          
       キツネノカミソリ




1984年春の私 (可愛い我が家の山女魚たち)

山女魚達が久しぶりに訪れた釣り人達の影に脅えながら、岩陰で流れてくる餌を待つ。餌のロクにない冬の間だけが彼女等の安息の季節とは皮肉なものだ。冷たい雨の降る昨年の秋、女房と子供を連れて桐生川に出掛けた。もう見慣れた淵をそっと見れば、何匹もの山女魚達が気持ち良さそうに泳いでいた。

 
セツブンソウの花が咲いた。長く厳しかった今年の冬も、この草の小さな花びらを見れば、寒さの中にも確かな春の足音を感じないわけにはいかない。そして、まだ冬色の雑木林の下に明るく咲くカタクリの花を見つける頃には渓も開かれる。解禁日ともなれば、何十、いや何百人もの釣師が、今年初めての山女魚を手に入れようと暗いうちから渓に繰り出す。一匹でもいい、春そのものとも言えるこの魚をこの手にして、弾力のある彼女の魚体をながめてみたい。あの俊敏なやつがまだ本来の力を発揮せぬうちに。

 そして、山や谷が萌え出すと渓はいよいよ明るく、流れも力強く、一年で一番華やいだ季節となる。その頃になると彼女はちょっとやそっとの誘いには振り向いてもくれない。いかにしてあのすれっからしな彼女=しかし誰よりもまして魅力的なあの女を手にしょうかと思い悩む。我が家の食卓にも滅多にのぼらぬ高級イクラを餌にしたり、彼女の好物のカゲロウに似せて作った自作の毛バリを手にし、足繁く通った飛駒、野上、秋山の渓。女にうつつを抜かすとはこの事だ。

 月に何度か逢いに行くうちは我が女房殿も大目に見ていたが、本妻の他にお妾さんを囲いたいと言い出してからは、あいた口もふさがらない。何の話かわかりませんか? 実は釣りだけでは物足りず、水槽を作り山女魚や岩魚たちと一緒に暮らそうというのである。

 幸い我が家は本城の山際。山の斜面から湧き水が一年中流れ出る。その水を水槽に引いて彼女の部屋は出来あがった。釣った山女魚や岩魚を生かして持ち帰った。しかし、彼女の気持ちを考えずにつれてきたのでは、与える食事も口にしてくれない。困ったものだ。デリケートな彼女のことだから仕方ないのかもしれないが、私も惚れた弱みで、実の女房以上に面倒を見てやった。

 生餌ならお口に合うだろうと館林の方までクチボソをとりに出掛けた。一途な思いに同情したのか、彼女も岩魚のお兄さんも、やっと食べてくれた。しかし、秋風が吹くようになるとクチボソも深場に落ち、とることが出来なくなった。しかし、私はあることを知った。死んだクチボソも、水面からゆらゆら水底まで落ちるうちは生きているものと勘違いするのか食べてくれる。

 その頃、マーケットに雑魚のテンプラにでもと売られているクチボソのパックがあるのを見て、これを大量に買いしめ冷凍庫に保存した。小出しに与えていたその餌も冬を越し春も近付いた頃には底をついてしまった。次ぎにひらめいたのは、マグロの刺身である。何とはなしに与えたらよくたべるので、今ではこれが常食となっている。

 昭和通りの「魚憲」さんの好意を受け、タダでいただいている高級マグロを口にしている彼女は春を迎える頃には、いよいよ女ざかりに育ち、私を喜ばせた。今では二十a〜二十五aに育った複数の彼女等が、私の与える餌を求めて次々に棲家のU字溝から顔を出す。その姿を見ているだけで私はうっとりとした。
 
 しかし、心弾む日々も長くは続かなかった。気温が上昇するにつれ彼女等の食欲も減退し、動きも鈍くなった。我が家に昔からある井戸を何日かかけて掃除し、自家水道をとりつけたので日中水温が二十度Cを越えてしまうと、年中十八度以下の井戸の水を加えて水温の上昇を防いだ。暗い気持ちの日々がしばらく続いた。

 やがて、飼育を初めて一年目の9月が訪れた。一年無事に飼育できたということは、無限の可能性が立証されたことになる。まだ水温は高いがひと頃に比べればもう心配はない。私は大いに喜んだ。

 ある日、友人に誘われ、今年の釣りも終わりに近づいたので東北地方へ行こうと話がまとまった。いつも出番のない女房や子供を連れ、温泉が近くにある渓流を選び、二泊三日ということで出かけたが、この旅行が原因で、ある事件を迎えようとは夢にも思わなかった。

 岩手の夏油(げとう)川の支流に糸を垂れ、和賀川に寄りもしたが、一匹も釣れなかった。県境の真昼山地を越え秋田県横手市から成瀬川沿いに走る途中、竿をおろして見たところ、ここでは二十五aを頭に数匹の山女魚が釣れた。二泊目の宿を栗駒山直下、千二百メートル付近にある高原の温泉「須川温泉」にとった。

 雲海の彼方には左に鳥海山、右に早池峰の山々が望め、高原には、オヤマリンドウが咲き、湧き出す湯量は私の知る中では最大級のものである。付近には「須川湖」もあり、ハイキングや登山もできるし、初夏には美しい高山植物も多いと聞く。車で行ける温泉としては、素晴らしい環境に囲まれていて貴重な所だと思う。

 だいぶ話がそれてしまったが、私の最近の釣行は、釣果よりもただ自然の中にいる口実になっているようだ。さて、のどかな温泉と渓流の旅から帰ってみると、夜だというのに、あの神経質な彼女等が水面付近をプカプカと泳いでいる。しまった! しかし遅かった。それからの三日余りの間に、この一年間、毎日様子を見ながら育てた彼女等のすべてが死んでしまった。原因は明らかであった。何かの理由で死んだ一匹の岩魚をすぐ回収しなかったため、水が汚れ、「水生菌病」にかかったためであった。わずかと言えばわずかな三日間だが、彼女等にとっては、私の帰りが待ち遠しかったに違いない。水生菌にジワジワと魚体を蝕まれながらひたすら私の帰りを待つしか手段を持たない魚の気持ちを思うと哀れでならない。それからしばらくの間、気の重い毎日が続くことになった。それでも救いはあった。2回目の春を迎え、四十a近く育った2匹の岩魚が水槽の中を悠々と泳いでいる。

 それに私は2年前、魚の剥製が作りたくなり、本を探して何とか自己流で作れるようになっていたので、美しい姿のままで死んでいったものを選んで丁寧に作り上げた。我が家の応接間の壁面には、何匹もの山女魚や岩魚たちが泳いでいる。

 近頃の渓流釣りは数を釣ることはほとんど不可能になりつつあり、まして尺山女魚や尺岩魚と呼ばれる三十aを越えるような大物は滅多に釣れなくなった。二十a前後なら良型と呼ぶ。その良型を2〜3匹釣ることでさえ難しいのである。私の家の水槽に入れた当時は、どの魚も20aかそれ以下であった。それが一年を経た頃には25a〜30a位に育ったのである。大きければ良いとは思わないが、渓流では滅多に見られない大きなものばかりが代わる代わる餌を食べに出てくる光景は胸のすく思いであった。今となっては、そんな光景は私の頭の中にあるのみである。

 ごく限られた環境の中でしか生きられない生物は山女魚や岩魚以外にもたくさんいる。それらのほとんどが人間のために減りつつあることは事実である。私が毎日温度を測り、一生懸命大切に育てても死んでしまった。私は釣りをやめるつもりはない。しかし、なぜか、山女魚に死なれてからのこの頃は、今までと何かが違ったように思える。今年も解禁を迎えたが、足が重く今日になっても未だ渓に出向いていない。

 
この文は、1984年5月9日から3日間、地元の「両毛新聞・私のノートから」に掲載されたものを、一部省略して載せたものです。昔の文章ですが、こんな時期もありましたので敢えて今、載せてみました。
                                  
2002年 6月 24日 記

  
                
 我が家の壁




調和

 私が良く考えることは、だいぶ話が大きいが、人間としてこの地球上に生まれてきて、どうのように生き、また死んで行くか!・・という事だ。誰しも他人よりも秀でた何かを、生きた証しとして「形」に残したい・・と思うのは当然だろう。しかし、才能、体力、経済力、その他いろいろな要素がうまく揃わないと、後世まで残るような「形」にはなかなかならない。ほんの一握りの人以外は、死ねばすぐに忘れ去られてしまう。そしてそれが自然なのかも知らない。

 たとえ、努力が実り多少世の中に認められたとしても、すべてわかったような顔をして、自分の主張を曲げずに、他人の未熟さや矛盾点を攻撃し、お山の上から下々を見下ろすような態度をとるのも空しく思える。単に、岩の上で吠えているだけとしか思えない。吠えれば威厳はありそうだが恐くて人は寄りつかない。恐いもの見たさ・・・というのもあるだろうが、それは理解とは違う。 

 自分の家族数人とも仲良く出来ないで、立派なことを仰るのも、どこか違うと思う。まず、よそ様に自分の存在や山ほど身に付けたかもしれない知識・教養・技術・才能を知らしめる前に、身近な人から、・・(たとえ一人でも)「貴方と知り合えて良かった」と言っていただければ、そのほうが生きてきた甲斐があったと言うものだ。


 自分一人優越感に浸るのでなく、縁あって同じ時代を生きている身近な人達と、ならばうまく付き合って生きて行きたいものだ。それには、主張するばかりでなく、自分との違いを認めたり、もともと人間なんて生まれた時から不平等なのだから、いろいろな点で我慢したり諦めたりすることも必要だ。

 わかったような顔をしていても、数十年の人生で何がわかる・・・と言いたい。人間のことが少しわかったとしても、自然界の様々な生物の事などまだわからないことだらけだ。

 話は飛ぶが、イラガの幼虫が自分の体を自分の糸で丸く紡いで、ジーッとしている内に、あの堅い繭になってしまうなんて、専門家でさえサッパリわからないらしい。親しくしているお医者さんだって、聞いてみれば「わかったような顔をしているだけで、わからない事だらけだよ」・・・と仰った。

 謙虚になって、人間として、僅かではあるがこの世に生かさせている間ぐらいは、穏やかに人間だけではなく、まわりの自然とも仲良く接して行きたいと思う。


                                  2002年 5月28日 記

   
           
アゲハチョウ 





蝶の採集

 私は蝶の写真を撮ったり、飼育したり、時々採集もしたりする。そんな話しを一般の方々にすると、「採集したり、飼育したあと殺すんでしょう?」と聞かれることが多い。確かにその通り。何でも採って殺すのではなく、いつもその時その場でいろいろ考える。この蝶はたくさんいる種類だから少しぐらい採っても大丈夫!とか・・・この蝶はこのぐらいにしておこうとか・・・種類によって違った考えが浮かんでくる。飼育したあとで普通種は庭に放すことも多い。

 また飼育すると野外ではほとんど採集不可能な美しい無傷の個体を得ることも出来る。方法は卵や幼虫や蛹を野外で探す。または雌を採集してきて、いろいろその蝶にあった方法を駆使して産卵に導く。簡単に産む種類もあれば、頑固でどのようにやっても産まないものまで様々だ。野外採集の雌はたいがい交尾済みと言われるので、目的の雌を採集できれば、ニッコリ・・・

 ある本で読んだ文中に驚くことが書かれていた。カラスザンショに産みつけられたアゲハの卵95個を羽化まで追跡した記録だが、様々な要因(天敵・・・・アリ・クモ・アシナガバチ・蜂・鳥・最後はカマキリによる捕食)にやられ蛹になり羽化したものは0.6匹であったと記されている。いい訳かもしれないが、産卵させて飼育すると数十頭の成虫を得られることもある。本来育つことが難しい蝶を人工的ではあるが手をかけてやり育て上げ標本としていただく。申しわけありません・・・・・!

 自然状態で出会う蝶は驚くほど危険だらけの中をかいくぐって羽化できた、蝶エリート?なのである。どこかの官庁(蝶?)のエリートとは違って毎日が自己責任の真剣勝負。あちらは育ったあと天敵が少なく生存率が高いのがいけない!?

 最近、前々からあるHPを読んで興味を抱いていた、珍しいチャマダラセセリという蝶の採集に挑戦した。わずか開長2cm足らずの小さな蝶だ。

 その日は早朝に出発し片道3時間以上もかけて行っては見たが、もう既に時期が遅いらしく、いくら探せど見つからない。午後になっても現れない。感の少し良い? 私が朝方目をつけた場所がどうしても気になるので、そこで遅い昼食をとった。食べながらもあちこち探しまわり、何度も同じ所をまわり歩く。ベニシジミが多く紛らわしい。ギンイチモンジセセリやミヤマセセリもドキッとする。もう完全に諦めて、写真写りの良いベニシジミがキジムシロの黄色い花にとまったり、ヒメスイバに産卵に来る所を撮影しょうとしたところ、目の前を見ればチャマダラセセリの雌がキジムシロの葉にとまって産卵行動をとっているではないか!! 「やったー」 そして大声をあげて、相棒を呼ぶ。ともかく写真撮影がまず最初。私が撮ったあと相棒にも写してもらい喜びを共有した。もうだいぶ傷んでいるが採集して産卵を試みよう・・と持ちかえる。

 今、その貴重な雌はパソコンの横で産室?に入っている。昨日の晴天の中でも産卵しなかった。飼育経験のある詳しい方に、「麗しの雌」を見ていただいたら、「だいぶご老体ですなあ…」と切ないお言葉。・・・・もう諦めよう。「ご苦労様でした。貴女の子孫は、南向きの小高い丘に咲くキジムシロのやわらかな葉を食べ、きっとこの夏には元気に飛び立つことでしょう! そのまた子孫にいずれお会いすることもあるでしょう。その日を楽しみにしております・・・・」

注・・これらの文章を書いたころは採集もしていたが、その後の急速な蝶の減少(理由はさまざま)
に採集はやめた。今は写真のみに専念している。

                                2002年 5月 16日 記

     
    
チャマダラセセリ産卵             食草キジムシロ





いつでもこれが最後と思う


 日曜・祝祭日に働く職場なので、黄金連休もたいがい仕事の私だが、今日は朝から天気が良いので思いきって一人で出かけることにした。いつものコースをのんびり辿る。名草町の休耕田一面に群生するチガヤの銀色の穂が、ちょうど今撮影時だ。下見をしていたのでちょうど良い伸び具合。パチリ、パチリと上機嫌!・・なぜか好きなんです。チガヤが風に揺れ白くキラキラ輝くのを見るのは・・・・

 足利市との境にある須花トンネルを抜けるとそこは田沼町。付近の田んぼには遅いレンゲが咲き残り、ノアザミの花やハナウドの大きなレースのような白い花が咲き始め、草原にはウスバシロチョウがたくさんのどかに飛んでいる。飛駒から群馬県桐生市の梅田に抜けると藤の花が木々にからみついた状態であちこち豪快に咲いている。カワセミが一直線に右から左に飛んでいった。今は子育ての時期。

 カラスアゲハやオナガアゲハ、そしてミヤマカラスアゲハが少し混じる大きな吸水集団を撮影しょうと出掛けたが、昨年は1箇所に20頭以上いた場所に、今日は2頭しか見当たらない。飛んでる姿もあまり見られない。既にヤマツツジは咲いているのに、今年の早い春の訪れが原因か、何か様子が変だ。コンロンソウにもあまりサカハチチョウは止まっていない。

 その少し上流にはオオアラセイトウがたくさん咲いている栗林があり、昨年は草刈のおばあさんに許可を得て、次々に飛んでくるアゲハ類を思う存分撮影できたが、今日は時折訪れるのみで、パッとしない。

 キツネアザミが何百本も咲いていた広い休耕田も、今年はなぜかほとんど花が見当たらない。ここも予定が狂ってしまった。撮れるときに撮っておかないで、またあとで…なんて気を抜くといつまた出会えるかわからない。いつでもこれが最後かもしれない・・と思った方が良い!そうすればいつでも真剣になれる。

 それでも、出かけさえすれば予定以外の出会いは必ずある…これが私の行動の原動力。今回は葱坊主に止まったウスバシロチョウやモンキチョウのおもしろい写真がたくさん撮れた。いずれ「今週の表紙」に良く撮れた画像をアップしょうと思う。アマドコロの大群落にも出会ったしナルコユリや久しぶりのキンランにも出会った。渓流を覗けば大きな山女魚を見ることも出来たし、吸水集団は空振りだったがそれなりに満足な一日だった。

                                  2002年 5月5日 記


       
          
チガヤ                 フジ       ウスバシロチョウ
  
        
ハナウド




蝶を呼ぶ庭

 
昨年から手がけていた蝶たちが次々と羽化していく。アゲハチョウの種類が、ギフチョウ・ヒメギフチョウ・アゲハチョウ・オナガアゲハ・クロアゲハ・ミヤマカラスアゲハと続いた。
放蝶しても、この地で生きていけるものは飛ばしてやった。

 庭に植えてあるカラスザンショには、秋、多くのアゲハチョウ類の雌が産卵に訪れる。自然状態では天敵にやられてしまうので、私は見つけると網の中にいれて育ててやる。アゲハ類は蛹で越冬するので、家の中で保管しておく。羽化後庭に出て放つ際、最初に見た風景をふるさとと思ってくれるならば、また私の庭に産卵に来てくれるかもしれない。

 次ぎに越冬卵を見つけ春から育てたメスアカミドリシジミが羽化した。緑色の金属色に輝く美しい雄と赤い文様も鮮やかな雌が3頭づつ羽化してくれた。明日はウラキンシジミが羽化するだろう。今幼虫のオナガシジミがオニグルミの葉を食べ2頭のみではあるが順調に育っている。

 こうして、昨年からの宿題が一つづつ片付いて行く。写真を撮ったり、飼育したり忙しいが、何もいなくなると寂しいので、いつも何かを探している。

 バタフライガーデンと言う言葉が一般的になりつつある。食草や食樹・・・・それから吸蜜する花などを植えておくと、蝶がやって来る。

 最近知り合いになったある方は、足利から少し離れた山の中に一人で大きな家をもう10年以上かけコツコツと建て続けている。完成はいつになるかわからないそうだ。完成できなくても良いとも言っていた。サクラダファミリヤのように、永遠?に続くのかもしれない。そこの敷地は広大で、大きな池や畑もある。その、言わば宮沢賢治の理想郷「イーハートーブ」のような場所に、自由に出入りすることを私と蝶の友人が許された。
もう一人、蝶に詳しい方も既に入所?していて、蝶の好む木や草を植えよう! そして、池にトンボを呼ぼう!・・と共に張り切っている。

 雨になってしまった21日の日曜日、撮影のついでに「イーハートーブ」?を訪れた。春とは言え雨の日はまだ寒い。家の中の土間に火を焚き、暖かく心地よい手作りの火?を囲みながら様々なことを語り合った。価値観が似ている仲間達と、そんな贅沢な時間を過ごせる幸せを噛みしめる。

HPを作ったおかげで、友人も楽しみも増えている。

                                  2002年 4月25日 記


    
    
  メスアカミドリシジミ雌・羽化




春・・・この頃

 
今年の足利は一度も雪が降らなかった。また、庭の白木蓮が咲く頃にはたいがい遅霜が降り、あの白い大きな花びらを木いっぱいにつけた見事な景観が一夜で茶色になってしまいガッカリする事が多いのだが、それもなかった。しかし、日本中が早い春の訪れに戸惑っているようだ。アゲハチョウが早い3月に飛び出し、既に山椒やタラの芽、シオデ・モミジガサ・ゼンマイなどの山菜も10日以上も早く収獲時期を迎えている。毎年同じ頃(4月中旬頃)に採りに行くのだが、どうも調子が狂ってしまい行く気になれない。

 秋になると毎年我が家を訪れ、長年家族とも親しかったジョウビタキは、なにかアクシデントがあったようで、昨年秋渡ってきた雄はいつもの個体と違うらしく、時々顔を見せたが家に余り近付かなかった。その雄も数日前に姿を消した。その前に頻繁に甲高い鳴き声が聞こえたのは、お別れの挨拶だったようだ。2軒隣に住む鳥好きな従兄と話していたら、その声をやはりに聞いたそうだ。そして、「そういうことが確かにあるようだ」・・・と言っていた。

 吹く風や暖かな日差しに季節の変化を感じ、決断をし遠いシベリアを目指す日にはそれなりの覚悟が必要だろう。一冬過ごした地を去るにあたって、小さな鳥にも熱い思いがあるのだろう。・・・きっと。また来年同じ雄がやってきたら、仲良くなれるよう工夫してみることにしよう!

 日毎に変化する雑木山の新芽の淡い色合いは、たとえ様もなく美しい。そ
の中にポッポッと明かりを燈したようにウスピンクや白い山桜がたくさん咲いている。慌ただしく暮らしていると、その変化を見逃してしまい気がつくと、どこも同じ濃い緑色になってしまう。この時期は本当に毎日が貴重だ。

 
庭には次々と春の花が代わる代わる咲き続け、毎日私の目を楽しませてくれる。テングチョウがエノキの新芽に、藤の蕾にルリシジミが産卵して行く。ツマキチョウが庭を横切り、時々ムラサキケマンやタチツボスミレで吸蜜して行く。撮影を試みたがシャッターを押す前に逃げられ、すべて失敗に終わった。しばらくぶりの蝶の撮影にどうも調子が戻らない。マクロレンズによる銀塩写真だった昨シーズンまでと違って、デジカメに変わってからはピント合わせが悩みの種。両方をうまく使おうと思っているのだが、今年はウサギ1羽も獲れないかもしれない?

 家の中では、ギフチョウ・ヒメギフチョウに続いて、オナガアゲハ・アゲハチョウが最近羽化をした。この辺で生きていける2種類は飛ばしてやった。桜の新芽(葉)を食べて育ったメスアカミドリシジミは既に蛹になった。もう少しで成虫になるだろう。今年初めて飼育したウラキンシジミはコバノトネリコの花穂を食べ順調に育ち、速いものは(4/4)前蛹になった。

 昨日はナメコの菌を桜に植え付けた。だいたい3年も経つとホダ木も朽ちてくる。今春、菌を打っても生えるのは来年の秋だ。毎年欠かさず食べるには、次ぎのホダ木の準備が必要になる。

 何だか今年の春は落ちつかない。前橋の友人も春に追われて忙しそうだ。私と似ていて、蝶に山菜に、渓流釣りにと、体がいくつあっても足りないようだ。今年は、私の作ったナメコの味に魅せられて? ナメコ栽培も始めた。

 世の中、政治も経済もまだ相変わらず不透明だが、私の仲間たちは自然
と付き合っているせいか、頭半分はいつもすがすがしい?!

                                  2002年 4月7日 記

     
            タラの芽             雪の日のジョウビタキ




ご心配をおかけしました。

 
以前、このページの随想(12月1日 記)に「がんばってください!」というタイトルで書いた事がありました。おしまいの方に「マキチャンがんばれ!」・・・と、身内の事を少し書いてしまいました。本当に心配だったので、つい、どこかに向けて叫びたいような気持ちで書いてしまいした。

 マキチャンは開頭手術を行ないました。年頃の女の子(高2)の頭部をかなりの長さ傷つける手術は術後の経過も含めてかなり心配でした。激しい頭痛が長期間続き、原因もハッキリしない中での手術はまわりのものすべてが不安でした。その後の経過は頭痛が解消されず不安定ですが、一時のような激痛では無いらしく、学校にも様子を見ながら通い始め、留年は避けられたそうで一安心しました。頭痛のない時の笑顔はとても可愛い、もとのマキチャンに戻りました。看護婦さんになりたいといっていますが、人の痛みのわかるやさしい看護婦さんになれるような気がします。

 何人かの方々よりご心配をいただきました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。

そして、また、もう一度・・・それぞれのご苦労に対しお互いがんばっていきましょう・・・と付け加え改めてお礼と致します。

                                 2002年 3月25日 記





普通のおじさん

 私が描いている絵をHPに載せたので、「絵かきさん?」とか「画家ですか?」と言われることがある。絵描きとはなんだろう?絵を描いて売れれば絵かきさんか? 売れない私は、だいぶ前から冗談で画家の下に「り」をつけて「ガッカリ」と言っている? (別にガッカリしてはいないけど)


 ま
た他にいろいろやっていて、時々「絵を描くこともある。」とも言っている。芸術家なんて言葉は恥ずかしくて自分から言う言葉ではないと思うし、人から言われるのも認めがたい。何故なら本人にとってはだだやりたいことをやっている。また、多少絵の世界に足を突っ込んだので、このままやめてしまって中途半端で死ぬのが辛いから、同じ中途半端ならこれが私と居直ってやっているだけの事だからだ。芸術家なんてとてもじゃないがウソっぽい。

 私は見るからに芸術家っぽい風体をしている人は信用しない。ただのおじさんが絵を描いて、それを見た人が意外とうまいじゃあないか。とか、何か言いたいことがあるようでわかるような気がする・・・そんな程度の反応で良いと思っている!

 初対面の方と会う場合だって、ちょっと話せばなんとなく直感で良い人か胡散臭い人かの区別はつき、その印象でまず間違いはないと思う。絵だってなんとなく良いなあ・・・で充分だ。難しい理論をとやかく言わねば(聞かなければ)わからないような絵は何かが足らないとも思える。

  絵の研究所時代、昼休みにモデルさんに冗談を言うと、そのモデルさんはメモを書いておき、どこかの美術大学などでモデルをやったとき私のネタを使ってみて、受けると、後で、「田村さん・・あれは受けたよ!」と報告したものだった。いつも難しそうな本を読んで苦虫噛んでいるような顔をしているのも嫌いだった。(これはあくまで私の好みの話しです。)

 お百姓さんは米や野菜を作るのがうまい。大工さんは家を建てるのがうまい。絵を描いて長い人は絵を描くのがうまい。みんな同じだ。ただ、うまい米を作っても一俵百万円では売れない。それが、絵に関しては、天文学的?な値段がつくこともある。博打みたいな話しだ。うまく行った人の場合を術を使った人の意味で「芸術家」と呼ぶのだろうか?!

 山に登り、花や蝶や鳥が好きで写真も撮って絵も描く…それが私です。ただの普通のおじさんです。
                                  2002年 3月18日 記

   

      
 渡良瀬川・日没



大衆化時代そのU

 随想もご無沙汰してしまいました。HP作成後2年目の春を迎え、昨年の繰り返しのように春の蝶の紹介からでも書けば書くことはいくらでもあるのですが、ちょっと構えすぎて考えているうちに時間が過ぎてしまいました。鉢巻をして考えた所で良い内容が浮かぶわけでもありませんので、先ほど読ませていただいた友人からのメールや、私が時々書きこんでいる掲示板「気まぐれ談話室」の苑主さんの言葉からの連想で書こうと思います。

 苑主さんは木本(樹木)が専門でいらっしゃるのですが、最近草本(草花)の写真も載せていただけるようになりました。私は喜んで期待のほどを書きこんだのですが、俳句をなさる苑主さんから次ぎのような俳句が紹介されました。


   
カメラ構えて彼は菫を踏んでいる (池田澄子)

 どこかへ旅行に行く時、バスや車の中で、「目的地に着いたら教えてね!」と言って着くまで寝ている人がいる。「着いたよ」と起こしてやるとカメラを持ちだして直線的に歩き出し、パンフレットに出てくるような所で記念写真を撮ってすぐバスや車に戻ってくる。そしてまた移動の間寝ている。団体ツアー旅行の日本人の典型みたいですね。証拠写真を撮るためのツアー・・・・・

 花の撮影は身を低く構え、草原に寝そべったりもします。スミレが撮りたい人はスミレしか目に入らない。その周りにもいろいろな花が咲いていたり、地味ではあるが雑草も生えている。それらを踏み倒してステキな写真を撮ろうと思案をする間、麦踏状態。できあがった一枚の美しいスミレの写真を見た人は、さぞかし自然を愛する心やさしき人のように思うでしょう・・・なんか変ですよねえ!

 野に咲く草花は季節の移り変わりによって同じ場所で異なった種類が循環して咲く。ある花が咲いているとき、足元に次ぎに咲く花の芽や蕾を持った目立たない草だって生えているだろう。
今年も花々が一斉に咲き出す春になり、多くの人が簡単に写せ楽しめるデジタルカメラの普及で、あちこち出かけ記念撮影をすることだろう。その時は、花の咲いていない草達のことも考え足元にも気をつけてステキな写真を撮ってください。私も踏み荒らさないよう気をつけますので・・・

                                 2002年 3月11日 記


 
 
          フキノトウ



大衆化時代


 足利にはいくつかのハイキングコースが整備されている。私の家から一番近いのは織姫山から両崖山、大岩の最勝寺(大岩の毘沙門様と呼ばれ日本三大毘沙門天のひとつ)を経て関東の高野山と呼ばれる行道山浄因寺までのコース。そこから北に続くコースは名草の弁天様(厳島神社)まで伸びている。何十回となく辿ったコースだが最近は、あちこちに擬木を用いた階段などが出来ていて整備が行き届いている。平地の公園を歩いているような所もある。

 
県立公園でもあるし大勢の方々が訪れるからには、安全でなければならないのだろうが、あまり自然に手を加えることは、どうも私には不自然に思える。

 一部の人達だけの楽しみだった登山やハイキング、その他、バードウオッチング・釣り・山野草の収集など様々な自然とのふれあいも、今まさに大衆化時代の到来となった。

 私のHPを見てくださった方からメールが届き、昔、私が南アルプスの北岳周辺に登った話しなどしているうちに、最近の登山事情を知ることができた。下にその方からのメールのコピーを載せてみる。

 
月に1度はどこかの山に登っていますが、たいてい奥多摩か南アルプスの鳳凰三山か甲斐駒といったところです。最近はこの登山も観光ツアーに組み込まれていて”富士登山””南アルプス登山”は定番となっています。ですから夏場の登山はすさまじいものがあります。小屋の主人からも”こんな時期は遠慮してくれ”と言われてしまいました。

 これが現状だ。凄いとは感じてたが、これほどとは思いもよらなかった。私が今再び登ればその中の一人となる。

 登り方(中高年)を見て感じることは、自分で計画をじっくり立ててから登るのではなく、リーダーや他の人の計画に便乗してあちこち登る事が多いようだ(連れてってもらう)。また回数も多く、毎週のように登る。百名山が影響しているのか守備範囲も広い。どう登ろうと勝手な話しで、大きなお世話だろうが・・・

 前にも書いたが登るまでに憧れ、自分でいろいろ調べてから登れば楽しみもより深いと思うのだが・・
 昔と比べても仕方ないとわかってはいるが、遥かな山々も、いろいろなメディアで紹介され、身近に感じられるようになってしまった。交通事情も悪く不便で、アプローチが長く、装備も重く、危険も伴った登山をしていた頃は、覚悟ある人のみ登っていたような気がする。

 これから、ますます自然の中に人々が繰り出すだろう。自然とうまく付き合ってやってください・・とお願いしてこのお話は終わりにする。
                                 2002年 2月 17日 記


 
      
河童橋と穂高連峰



山を思う


 山と言っても様々な山がある。おおらかな広々とした峰々が延々と続き花々が咲き乱れる飯豊連峰や朝日連峰。急峻な岩場が続く穂高連峰や剣岳周辺。稜線にお花畑や雪田や雪渓が交互に現れいくつものピークを超え変化に富んだ縦走路が続く表銀座や裏銀座の山々。沼や池塘の点在する尾瀬。浅間山や富士山のような植物もあまり生えていない砂礫の山・・・・

「山」とまとめて言うけれど形としては岩や土の塊であって、地表を覆う森や林、草原、岩場には様々な植物や生物が存在している。また、山の形の美しさ。連なりの遥かさ。四季の彩りの変化。光りと影によって演出される荘厳さ。雲や霧、雨など大気の衣装をまとった変化に富んだ姿。人間に敬虔な思いを抱かせる神々しい対象。それらすべてが山である。

 遠目には一見、昔も今も変わりないように見えても、我々人間社会と同じように生死を繰り返し、一日として立ち止まることなく変化している。やがて形ある物は消滅して行き、短い私の人生の中で出会った大切な人達と同じように、それら自然の中のさまざまなもの達も一緒に同じ運命を共有している。だからこそ、それら一つ一つの山を構成するものに対し、「生きる同士」としての連帯感を抱き、それら細部もいとおしく思える。

 ふるさとの家の周りの山々には、いたる所に幼馴染の様々な植物や思い出深い場所があった。荒れ果てた人家周辺の山々を見れば心が痛む。それでも、目の前に聳え朝夕変化し四季の移り変わりを楽しませてくれる200メートル足らずの山々も華やかなアルプスや百名山に載るような山々に劣らず私にとって大切な山である。

                                  2002年 1月20日 記

 
       
 家の前の山 両崖山・夕焼け




凍蝶


 凍蝶という言葉があるそうだが私は知らなかった。ある掲示板の中で俳句をやっている方が疑問を持たれていた。季語の中にあるこの言葉は知っていても、実際どのような(状態の)蝶を言うのか良くわからなかったらしい。私なりに考えてみたが、次ぎに書いた正解とはちょっと違っていた。

その方のその次の書きこみに、「歳時記にはこんなふうに書いてありました。・・・冬、どうかすると蝶が飛んでいる。成虫のまま越年する立羽蝶や蜆蝶の仲間がいる。同じ冬の蝶でも凍蝶の方はじっとして飛ばない蝶である。」と

 越冬中の成虫を言う言葉で、小春日和や暖かい日に飛び出す蝶のことではなく、じっとしてひたすら春を待つ蝶を言うとのことだった。(私は飛び出す蝶の方を言うのかと思った。なぜなら、冬、どこか知らないところでじっと春を待っている蝶にはそう簡単にお目にかかれないから。想像や空想で読める俳句ならではの言葉かもしれない。)

 昨年の秋、北八ケ岳の麦草峠で仲間達と昼食をとっていた時、1頭のヒオドシチョウが目の前に飛んできた。その付近は既に霜が降ったらしく植物は皆枯れていた。横岳方面に続く登山道に小さな木橋がかかっている。その橋の下側をヒオドシチョウが丹念に何か探していた。私は越冬場所を探しているのだろうと思った。しばらくの間探していたが気に入らなかったのかあきらめてどこか飛んでいってしまった。一冬を過ごすにはより安全な場所でなければ命取りになりかねない。その帰り道、今度は中腹の林道でまたヒオドシチョウに出会った。今度は、道の脇の斜面にある岩の隙間を見てまわっていた。窪みに入ってはまた出てきたり、ここでも慎重だった。他の目的があったのかもしれないが、私にはやはり越冬場所を探しているように思えた。

 今年の正月は寒かった。名古屋や関が原の方ではだいぶ雪が積もったらしい。今日もこれから関東地方の平野部でも積雪があると予想している。足利でも、北八ッでも今頃多くの蝶が様々な形で越冬している。成虫のまま越冬しているもの、卵で、蛹で、また幼虫でも・・・それぞれ自分の遺伝子の中に組みこまれた日照時間と気温の情報が春の訪れを示すまで、ひたすらじっとその時を待っている。オオムラサキは落ち葉の下で幼虫のまま、ミドリシジミはハンノキの幹に産まれた卵の形で、アゲハチョウの種類は蛹で、そして、ムラサキシジミやウラギンシジミ、ヤマキチョウ、テングチョウ、いくつかのタテハチョウの仲間などは成虫のまま「凍蝶」として・・・

 しかし、春が来たとしても「凍蝶」が目を覚まし再びまた大空を飛べるとは限らない。昨年のウラギンシジミのように(随想2・春動くに書いてある)春を目前にして死んでしまう蝶もいる。

 今年の冬は、寒さが厳しそうだ。このまま目を覚まさない蝶も出てくるかもしれない。

                                   2002年 1月5日 記
 
    
キタテハ・・早春の暖かさに浮かれ飛び出したが、
           陽が翳ると草むらにもぐりこんだ。





春を待つ


 冬になると蝶の撮影はひとまずお預け!・・・でもやることはいろいろある。春になっての楽しみを今用意しておかないと待ち遠しさが一味違ってしまう。

 ああ!・・日本の何処かに、私を待ってる人がいる♪・・・・なんてロマンチックな話しではないのだけれど、待ってくれている人がいるように、何か期待があってこそ寒く長い冬ものり切れるのだ・・・!?

 ・・・まあ前置きはこの辺にして、実は春先の楽しみにと、昨日友人達、計3名で蝶の越冬卵探しをしてきた。前日の寒波で目的地は雪が積もっていた。道路はつるつるに凍結し歩く足元もおぼつかない。目的はメスアカミドリシジミの卵だ。道路際の桜の木を探しては、産んでそうな枝を目を凝らしては見るがなかなか見つからない。時間は過ぎて行く。一人が1卵捜し当てた。俄然やる気が湧いてくる。2卵目は私が探した。移動するうちにハルニレの木が見つかり枝を探せばカラスシジミの卵が結構たくさん付いている。調子が出てきたぞ! 寒さも忘れひたすら探す。そのうちオニグルミにオナガシジミの卵までも見つかり皆上機嫌。しかし、メスアカミドリシジミの卵はその後なかなか見つからなかった。午前10時過ぎから探し始め日が落ちる頃までがんばった。結局、メスアカミドリシジミは計6卵だった。それでも副産物が思いのほか多かった。カラスシジミ15卵、オナガシジミ6卵、ウラゴマダラシジミ5卵・・とまずまずの成果だった。雪が積もってはいたが幸い天気は上々で充実した時を過ごすことが出来た。

 これらの卵をどう越冬させようか? 冷蔵庫での保管は以前失敗の経験がありやりたくない。まとめて庭に吊るしておいた。春近くになると食樹をいつ頃から用意しょうかなどと頭を使う。クルミは水揚げが悪いと言うし、ハルニレは近くにない。梅で代用できると書かれているが果たしてうまく行くのだろうか・・? 採ってきて後もいろいろうれしい悩みがついて来る。そうこうしているうちに春はやって来る!・・・(そんなすぐにはやってこないが、) この他にもウスバシロチョウの卵やギフチョウ、ヒメギフチョウ、その他アゲハの仲間の蛹など、私と一緒に春を待つ蝶々たちがたくさん我が家にはいる。

                                2001年 12月 13日 記

 
        
 メスアカミドリシジミ      メスアカミドリシジミ越冬卵
                      (これは実物より大きい。径1.09〜1.11mm)





がんばってください!


 日本経済が音をたてて崩れていく。そんな気がするこの頃ですが、私の周りを見渡しても様々な理由で大変な思いをしている方が多いようです。仕事の心配、体調の心配など・・

 今、私の弟の長女(高2)が闘病生活を送っています。「獅子座流星群を友人と見るんだ」…と言っていたのに先月初め緊急入院してしまい現在にいたっています。昨夜「月曜日に手術をする」と弟から電話がありました。

 体調の思わしくない友人やご家族がいることをメールで知りました。また身内にご不幸のあったことがこの時期喪中のお知らせを見てわかり、若くしてなくなったお子さんの事など思うと胸が傷みます。

 皆さん元気出して下さい。そんな悪い事がいつまでも続くわけでもないでしょう。そう簡単に雨のち晴れ・・・とはいかなくとも元気を出してください。私にはどうする事もできないですが皆さんが元気になって、見上げる青空が限りなく青く、夕焼けが空いっぱいに赤く染まる…そんな事でもうれしく思えるような健康な心を取り戻してください。
「マキちゃんがんばれ!」
                                  2001年 12月1日 記

 
       
 ヒマワリ畑




獅子座流星雨


 今までも何度か流星群を見に出掛けたことがあった。一番記憶に残っているのはジャコビニ流星群だ。その時は親戚のお兄さんに連れていってもらった。標高1828Mの赤城山にしょうと車を飛ばしたのだが、雲が多くて生憎星は隙間から数個のみ・・・・仕方なく考えたのは「足利方面のほうが見えそうだ」・・・という苦し紛れの策。急いで山を駆け下り一路我が町足利の山奥へと逆戻り・・・しかし、やっとの思いで峠までたどり着いてみれば、やはり見えるのは数個のみ。完全なる敗北であった。

 その後も彗星だの、流星だのといろいろ見に出掛けたが、今回の獅子座は凄かった。流星群でなく、流星雨だそうだ。まさに雨の如く降り注いだ。しかし、今回初めて流れ星の撮影に挑戦したので、ただ眺めているわけには行かない。構図や絞りや露光時間…ともかく数を撮るのが一番だと、私とリンクしている星の写真展のN氏が言うようにやたら滅多撮りまくった。まぐれ当たりが数枚あったが出来のほどはなんとも言えない。

 さて、翌日高一の2女にその凄まじさを語ってやったところ、「何で起こしてくれなかった」・・と残念そうだった。翌朝、学校でテストがあるので、仕方なく寝たと言うが、本当は見たかったようだ。

 私はこの子が小さい頃、星座をいろいろ教えた。今でも獅子座のレグルス、シシの大鎌なんて覚えてくれている。小学生の頃年賀状に獅子座を描いたこともあった。学校のテストに脅かされて敢え無く見ることを断念したようだった。

 今の学校はテスト漬けでいけない。先生から、「今日は皆さん勉強は一休みして流星群を見ましょう・・・」なんて進学校では決して言わない。星に願いを・・星に祈りを・・冬の星座・・こんな歌知ってるだろうか?

 翌日…いや、同じ19日の夜遅く、夕べから私が19日朝5時過ぎまでに数百?も見た、近くの林道脇の空き地へ本人が見たいと言ったので連れていった。生憎、遅刻してくる流れ星はほとんどなかったが、私が1個しか見つからなかったのに2女は結構見つけては、うれしがっていた。数は少なかったが親子で過ごした2時間ばかりが貴重なひとときであった。

                                 2001年 11月20日 記

 
    
 私が撮った獅子座流星雨
         オリオン座めがけて飛ぶ





晩秋の味


 調べたら晩秋とは今の10月頃と書いてあるが、頭の中ではもうチョット遅い感じがする。まだ家の庭の木々には葉がついている。シャラノキはほんのり赤く色付き、少しづつ葉を落としつつあるが、モミジはまだ緑の葉も残っている。

 7〜8年以上前だったか、ナメコの原木栽培がしたくなって、わずかではあるが5月頃菌を植え付け翌年の秋を楽しみに待っていた。簡易スプリンクラーまで購入してその時期に備えた。しかし、生えたのはうたい文句とはだいぶ違って、ほんのわずかのみだった。
私は、菌の購入先でもらったパンフレットに書かれている、ホダ木あたりの収穫量を当てにして、勝手に相当量の収穫を計算していた。多くの友人、知人にナメコが生えた暁には「たらふく食べさせてあげる。」とふれてまわった。

 しかし、その翌年もまたその翌年も生えるのは我が家で賞味する程度・・そのうちホダ木も朽ち果てて「たらふくの夢」は幻に消えた。どうもこのままでは腹の虫が納得しない。再挑戦をしたのが3年前。昨年秋には見事に生え揃ったナメコを収穫し、関係諸氏にわずかだがお裾分けできた。でも、全然生えないホダ木もあり、また雑菌(カワラタケ・イヌセンボンタケ)がすさまじく繁殖し瞬く間にホダ木を腐らせてしまいそう簡単ではなかった。

 今年は3年目・・・だいぶホダ木も朽ちてきたので期待しないで待っていたら、見事に生え始めた。昨日、第1回目の収穫をした。量は2軒のナメコ汁をたっぷり?作る程度だが味は最高だった。

 オガクズ栽培のナメコとは色も形も全然違っている。笠の茶色が濃く、柄も太い。
ある本で読んだ中にナメコ料理のことが書かれていた。ナメコ料理と言えばナメコ汁・オロシ和えと相場が決まっている。そして用いるナメコは笠のつぼんだおなじみの小さなもの・あの形が最初に商品として出まわったので、それ以後ワンパターンになってしまった。
あんな食べ方(小さいうちに食べてしまう)は「最低だ」と書かれていた・・・かな?

 ともかく、原木栽培で大きく育ったナメコを豪快に食べたら、あの、ツブツブナメコなんて食べられない。私と私の子供達は大きなナメコを箸でつまんで、食べる前にお互い見せ合って・・ニコッと笑って口の中に入れる。

 網で焼いて食べるのも美味しい。なにせ、相当大きく育つので・・・・!
これからまだまだ次々に成長し今年は今までに無い豊作になりそうだ。賞味期間あと10日間かな?一斉に最盛期を迎えるので今年はホラフキ回った方々におすそわけできそうだ!

                                  2001年 11月3日 記

 
           
ナメコ 見事でしょう!




幻を見る?


 毎年秋になるとキベリタテハを撮影に行く奥利根の山々が、蝶のシーズンも終わった10月24日、妻の両親がはるばる広島より訪れたので平日ではあるが出かけて見ると見事に紅葉していた。植物層の厚い渓流沿いの林道脇には赤や黄色に色付いた様々な木々の葉が、「今日が一番美しいだろう・・・・」と語りかけてくる。

 峠付近のブナの大木は既に葉を落とし明るい灰色の肌を晒していた。見渡す広大な山の斜面にはブナの木々の幹や梢の淡く繊細なコントラストが展開し、これはこれで趣き深い。通いなれた林道のカーブを曲がるごとに眼がかつて蝶たちと出会った場所を辿る。あの壁面のあの部分・・・路上のあの場所・・白樺の幹・・今ここにフワフワと飛んできて私を喜ばせてくれる・・・・そんな幻を見たような・・・でも、今はもうどこか温かいところでじっと春が来る日を待っていることだろう。

 ここに限らず、いたる所に蝶や花、動物たちと出会った思いでの場所がある。過去に訪れた場所をまた訪れては同じ光景を探し求める。出会えれば安心をし出会えなければ何かあったのかと心配もする。そうして時が過ぎ2度と出会えなくなった花や蝶やその他のものたちも多い。人間との出逢いだって数々の思い出の地がある。あちこちの山々でその日行動をしばし共にした人・・・すれ違いざまにわずかな会話をした人々・・高校時代通った好きだった足尾の庚申山荘で偶然2度出会った同年代の女学生!・・・私がそんな人達を時折思い出すようにあの人達も記憶を蘇らせてくれるのだろうか?

 既に蝶も姿を隠し、わずか好天の日にキタテハやアカタテハ、ウラギンシジミなどを見かける程度になってしまった。蝶に関しては少し寂しい季節になるが自然はいつでも何か驚きを与えてくれる。またどこかに出かけよう・・・
                                 2001年 10月29日 記

 
        
 ブナの幹

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