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                              荒地に沈む夕日
                 *  随想2 (2000年10月22日〜 2月14日まで)
                             
  上が新しく、下に行くほど、過去の文章となります。
                            *  引き続き随想3をお読みください。

春動く

 2月も中旬になると、ウスバシロチョウが孵化をする。1999年は2月13日に孵化している幼虫を確認した。孵化日は2〜3日前だったかもしれない。寒かった今年の冬も、2月ともなれば、小さな命が私達の知らないところですでに動き始めている。

 冬枯れの雑木林の隙間をミヤマセセリが低くせわしく飛び去って行く。キタテハやムラサキシジミが日溜りで羽根を広げる。明るい峠道のキブシの垂れ下がった花房にアカタテハがとまり、開けた山合の空間ではコツバメが飛んでは戻りを繰り返し占有行動をとる。もうすぐ華やかな春がやって来る。マンサク、ハシバミ、ダンコウバイ・・・セツブンソウ、フクジュソウ・カタクリ・・山里のあちこちにニリンソウの端正で可憐な白い花が咲き、広場のハルジオンが競ってうなだれた蕾を持ち上げれば、すでにウスバシロチョウの季節。一年で一番幸せそうな山里の光景だ。

 ウラゴマダラシジミも、もう10日もすれば孵化をする。冬眠中の蝶好きな皆さんもそろそろ洞穴から首を出しあたりの様子をうかがっている頃だろう。

 蝶のあたらしい足利の友人(ホームページが取り持って数日前に交信可能となった)がウラゴマダラシジミの卵を探しに出掛けたところ、卵は見つからなかったが、そこで樫の落ち葉の裏側から、死んではいるがまだやわらかなウラギンシジミを見つけたとのメールが届いた。

 もうそこまで春が来ているのに、今年の寒波と大雪(足利は滅多に雪は降らない、降っても年に2〜3回程度)で力尽きたのだろう。私達蝶好きな人間も、ウスバシロチョウが飛び交うのどかで平和な山里の光景を永遠に見ることは出来ない。白く輝くウラギンシジミのやわらかな姿を手のひらにのせて見れば、この新しい友人も何かやり場のない感慨を抱いたに違いない。

 繰り返す自然の営みの中で・・・私達人間と同じように、蝶も鳥も再び春を迎えようとしている。年に一度の春ではなく、人生の中で何回目かの春と思えば野山の春の光景も美しさが増す事だろう。
 
                                         2001年 2月14日 記
 

 
     コツバメ



オオムラサキ散る

 シンジュサンのお話に登場した鳥と蝶に詳しい開業医のK先生と、オオムラサキの撮影について話をしていたら、「飛んでいる真上から撮ったらおもしろいのでは」「横から撮った写真は見かけるが真上からの写真は見た事ないよ」・・・と先生が言う。単純な私は、それではやってみよう!・・とすぐその話にのってしまった。どう撮るかいろいろ考えた末、梯子とゴザとコモとビニール袋を車に積んでさっそく出かけてみた。私の住まいから5キロほど山よりに一軒の民家があった。その横の雑木林にクヌギの木が何本か生えていて、オオムラサキがやってくる事は以前から確認してあった。

 庭先をお借りするので、そこの御主人に撮影の許可?をいただいた。私の準備を不思議そうに眺めている。私の考えはそんなに凝ってはいない。梯子をかけ樹液の出ている所の少し上に一脚につけたカメラを縛り付け、樹液の手前の空間にピントをあわせる。そこから長いコードを引いて少し離れたところから、オオムラサキが飛んでくるのを待つ・・・・・ただそれだけの事だ。

 もう一つの、工夫をお教えしよう。それは、狙った樹液以外の所はコモを巻きその上からビニールのゴミ袋で覆い一箇所にチョウを集めよう・・・という魂胆だ。
 
 とりあえず用意は出来た。あとは待つのみ。ところが、下から見上げてばかりいるので首が痛くてしょうがない。そこでゴザが登場。ゴザの上に仰向けに昼寝をしているような格好になりスイッチを握る。朝から晩まで寝転んで、オオムラサキが飛んでくるのを待つ。やがて作戦どうり、前から樹液に近づく・・・横からも近づく・・「それ!」・・とばかりにシャッターを切る。でも相手にフェントをかけられタイミングがあわない。空振りが10枚・・・20枚と続く。

 カワセミは、巣穴に向って一直線に飛び込むのでまだ良かった。あの時は、シャッターを切った位置の、およそ2.5メートル先でピントがあう空間にカワセミが到達するということが2〜3本撮った頃わかった。36枚中1〜2枚ぐらいは見られるものがあった。しかしオオムラサキは手ごわかった。1枚もない。それに、蝶の羽根は薄いので、たたんだ時は胴体しか写らない。写っていても羽根がねじれていては美しくないし、画面の端に写っていたりする。一日では諦めず何回か出かけた。やっとの事でなんとか真上から撮れたものが1〜2枚のみだった。(参照 蝶19 「オオムラサキ羽化・生態」の最後・・・オオムラサキ飛翔に背景が暗いが1枚載っている。)

 鳩をたくさん飼っているそこのご夫婦は人柄が良く、コーヒーなどを差し入れてくれた。鳩を飛ばすとハヤブサが時々やってきて鳩を襲う・・・そんな話も聞かせてくれた。私はたいがいの事では諦めないのだがこの作戦はほとんど失敗に終わった。

 しかし、そこである光景を目撃した。印象深いその光景とは・・・・オオムラサキが林の中を滑空している姿は国蝶の貫禄充分だ。木漏れ日の差す林の空間を優雅に飛んでいた。右側から黒い塊が突然斜めに移動した。あたりの静寂を遮断し、一瞬バチィッと音がしたように感じた。次の瞬間、林の中のぎれぎれの光を受けキラキラ輝きながら紫の翼が散った。まさに空中戦だった。古い話だがグラマンとゼロ戦ではないが、戦いに敗れ散り行く戦闘機のもぎり取られた翼のようでもあった。私はなぜかその光景を美しいと感じた。その黒い塊はヒヨドリだった。胴体のみ食べ、オオムラサキのその美しい羽根は4枚に分かれゆっくりと林の草むらに落ちた。自然の中での日常かもしれない。ヒヨドリは美しい紫の羽根を見てから食べはしない。

                                           2001年 2月13日 記

 
     
オオムラサキ





独り言

 私がそうだからと言って誰しもそう思うわけではないだろうが、人間と付き合うのはすばらしい事でもあるが、反面、価値観の違いから疲れることも多い。勘違いの始まりは、同じ趣味の人にはつい話にのってしまい、話しているうちに自分と考え方が違う点に気づく。登山で、釣りで、撮影で・・そして私の本業?でもある絵画の世界でも・・・。

 自分とほとんど価値観が同じ・・・そんな人は滅多にいないだろうから当たり前な事なのだが、たとえば釣りにしても、単に欲しい魚をなんとしてでも手に入れたい、一匹でも多く釣りたい・・・ただそれだけで、あたりの自然が美しいなどあまり関心ない人も多い。釣り仲間と釣場で飲んで食べて騒いでゴミをポイッとその辺に捨てて帰る。自然の中に出掛けるのが好きだからといって、自然を構成する要素・・生物や植物や織り成す四季の風情にも関心を示すとは限らない。アウトドアでの遊びがはやっているが、自然の中に宴会場が移動しただけ・・・そんな人達が多いような気もする。

 登山にしてもピークハンターと呼ばれるが、登った山の数ばかり話題にする人も多い。
人生は短いから急いであちこち登らないと間に合わない? 自分の足と目であらゆる山の山頂を確認しそこからの風景を一つでも多く見てみたい・・・そう思うのだろうか? 

 花のガイドブックに書いてある季節に出掛けたてみたが、咲いてる筈の花がそこに咲いてないと文句を言う・・・そんな人がいた。その花の咲いている筈の場所だけが光っているわけでもないのに・・・・あたりにはいろいろな植物が生えている。目立たなくとも何らかの花は咲いている筈なのに。目立つ花以外は対象外だったりする。ミズバショウ、ニッコウキスゲの咲く季節以外の尾瀬はすいている。

 また、蝶好きな人にもいろいろいて、珍しい種類の収集にのみ情熱を傾ける人も多い。私も収集をしているので、コレクションにない蝶は喉から手が出るほど欲しいのは本音であるから、そんな人の気持ちも良くわかる。でも、長い間飼育や撮影をしていて違った楽しみがあることに気づいた。たとえば、キアゲハやウスバシロチョウのように普通種でも、できた写真が美しかったり、シャッターチャンスが良かったりすると喜びもひとしおだ。羽化したての蝶は珍しい蝶でなくても美しいし神秘的でもある。探せばいろいろな楽しみ方がけっこうあるものだ。

 書き出すときりがないが、絵の世界がわからない。その方のお話を聞くとすばらしいのに、絵を見ると言ってるほどの感動を受けない。・・・(多分に私の勉強不足のせいだと思うのだが)・・・・反対に、どんなに譲って話を聞いてもやはりいやな奴で、こんな奴の描く絵が人の心を打つなんて到底できるものか・・・と思いきや、けっこう良さそうな絵を描いたりする。・・・・・(繰り返すがたいしたことない私には大それた事は言えないのだが。)

 いろいろ勝手な事を言いたい放題書いたが、やっぱり私には良くわかりません。結論?・・・気のあった数人の人と仲良くやっていきます。多くは望みません。

                                         2001年 2月3日 記 

 
     
キアゲハ



林道周辺

 
 21世紀の幕開けは、自然、経済とも大型の寒波襲来からだった。今日本はアメリカ型の共食い的自由競争社会に移ろうとしている。相互扶助的、年功序列型の社会の方が世の中穏やかだった。グローバル化なんて言葉が聞こえだし、世界の情報が新聞やテレビ、インターネットなどで即座に一般大衆にも届く。為替や株価が企業の存続を揺さぶる。リストラ、倒産、失業、そんな渦中に私もいるのだが、仙人のように霞を食って生きては行けないのでそれなりに働いてはいるものの、蝶だ花だと・・こうしてホームページなど作っていると何だか後ろめたい気もする。またそうできる事に感謝もしている。
 
 そんな中、久しぶりにいつもの林道に出かけて見れば、なじみの林がまたシイタケ栽培のホダ木用に切り倒されている。ここ数年私の周辺の林のクヌギ、コナラの木がシイタケに変わってしまった。これは私の愚痴であって抗議ではないのだが・・・。

 雑木林の木の葉を幼虫が食べたり、樹液にオオムラサキやゴマダラチョウやスミナガシ、それからクワガタやカブトムシなど多くの昆虫が集まってくる。地面や枯れ木にはキノコが生える。自分だけの秘密のポイントもことごとくなくなってしまった。

 そんな、のんきな事が私の心配事だなんてチョット書きづらい。

 先日の雪が所々残っている。舗装された林道の脇にイノコヅチがわずかに生えている。良く見ればベニマシコが数匹実をついばんでいる。昨年大量にヒオドシチョウが発生したエノキの木は切られずに無事だった。

 両脇の畑や水田は埋め立てられ産業廃棄物が置かれている。道路の端には相変わらずゴミの山・・・・・・。積もった雪が路上で凍り付いている。それ以上登るのは止めた。

                                           2001年 1月18日 記
                                           

 
   ミ
ヤマクワガタ





試練
 
 ヒョウモンチョウの仲間にメスグロヒョウモンという蝶がいる。雄は他のヒョウモンチョウと変わりないのだが、雌は青紫がかった黒色でまるで別のチョウのような模様をしている。春に発生して活躍後、何処で過ごしているのか夏の間あまり見かけないが、秋には再び現れアザミやヒャクニチソウ、そばの花などに止まっているのを良く見かける。

 ヒョウモン類は秋に産卵する。そして、卵、卵内初令幼虫、または一令幼虫で越冬する。秋に雌を採集して産卵させるとたくさんの卵を産む。

 ある年の秋、林道を撮影目的で歩いているとあちこちのアザミの花に何種類ものヒョウモンチョウが止まっていた。やがてメスグロヒョウモンの雌がひらひらと飛んで林の縁にある一本のヒノキの幹に止まった。双眼鏡で観察していたら、驚いた事にその幹に産卵しているではないか!

 ヒョウモンチョウの仲間はスミレ類を食草にしている。林道の道端に確かにスミレは多いかもしれないが、わずか数ミリの幼虫が幹を降りあちこちさまよって目的のスミレに到達する確率はきわめて低いだろう。多くの蝶が直接食草や食樹の葉や枝、幹などに産卵するのに、わざわざ離れた所に産卵するのはなぜだろう?子供の教育のために試練の旅をさせるなんて、蝶の中にも教育ママが存在するのだろうか?・・・そんなことはありえないが遺伝子のなせる業にしてはあの数ミリ足らずの一令幼虫にとって過酷な旅立ちだ。

 メスグロヒョウモンのヒノキの幹・産卵シーンは多少被写体が小さいが確かに写っている。ヒョウモンチョウを見かけると、のんきそうに飛んでいるが人知れぬ苦労をして今こうして飛んでいるんだなぁ!なんてつい思ってしまう。「遥かなるスミレへの旅」も大変だけれど、他の多くのチョウも、幼虫時代に天敵の鳥や寄生バエ、寄生バチの攻撃から無事に生きぬいた勝者のみが、青空のもとひらひらと飛びまわれるのだ。なんだか生きるってたいへんですねえ・・! 

                                         2000年 12月13日 記
 

   
メスグロヒョウモン




同居

蝶の飼育をはじめた頃は、何でも飼ってみようと手当たりしだいに種類を増やしたので、家の中は幼虫だらけだった。「幼虫」なら聞こえもいいが「毛虫」となると嫌われる。蝶の幼虫には、毛が生えているのも確かにいるがそう多くはない。たいがいは蛾の幼虫だ。嫌いな人にとっては、毛が生えていようがいまいが、あの形態が苦手らしい。こちら大好き派は、卵1個幼虫1匹を大事に育て、ものによっては1年近くも湿度や温度に注意して保管する。

家族(女房)があまり良く思わない訳は、冷蔵庫の野菜室に蝶の食草をいれておくかららしい。蝶も人間も区別はしません。野菜と同じく食草の葉も大切な食料ですから・・・。専用の冷蔵庫を買えば良いのだがそこまでするのはどうも気が引ける。

卵から孵った数ミリ足らずの幼虫が真剣に葉を食べ、毎日少しずつ成長していく様子を見ているのは我が子のようでかわいいし、育ち具合が悪ければ心配もする。毎日ジィーと見つめている。

脱皮を繰り返し蛹になり、やがて一人前?の蝶としてあの嫌われ者の毛虫が立派に変身する。生まれたての蝶はほんとうに美しいものだ。でも蝶や蛾の成虫も大嫌い・・という人も多い。粉が(鱗粉)イヤという。犬が好きな人もいるし猫やその他のペットを飼う人だっている。自分の好みを認めてほしければ、他人の好みも同じように認めましょう! 認めてくれなくとも私は飼いますが・・・。

そんなわけで、いつも我が家には卵か幼虫か蛹が同居している。現在「ミヤマカラスアゲハ、カラスアゲハ、クロアゲハ、オナガアゲハ、アゲハ、ジャコウアゲハ・・・以上蛹、ほかにウスバシロチョウの卵など」同居中

                                      2000年 11月 29日 記


     
カラスアゲハ



                      

蝶屋敷

ジャコウアゲハという蝶がいる。私が子供の頃は家の近くにも生息していたのだが、宅地開発で絶滅した。足利の渡良瀬川の土手に、食草のウマノスズクサが多いのでところどころ発生している。しかし年に3〜4回土手の草刈をする。もう1週間待てば蛹になれるのに・・。そんな時土手にいると哀れだ。草刈機が幼虫の棲みかに近づく。 幼虫もろともことごとく刈られる。

 私は7〜8年前から家のまわりにウマノスズクサをたくさん植え、その年の最後の草刈前に幼虫を疎開させ、育て、越冬させた。いまでは家のまわりで春から秋まで見ることが出きる。そんな話しを前橋に住む蝶の友人に話したところ、それでは私も・・ということでジャコウアゲハ大作戦が始まった。食草を植えてもらい卵を郵送した。そのうち孵化したとの連絡が届く。大事に育てた甲斐あって立派な蝶に変身。家の周りから離れない人懐っこいジャコウアゲハは、その住人にたいそう気に入られ野菜作りのために借りている畑にもウマノスズクサは植えられた。

 仕事から帰ると、我が子が?家の周りをひらひらと舞っている。その姿を見ながら飲む1杯のビールが格別とのことだ。そのうち大量に増え、食草がまかないきれなくなり足利の渡良瀬川の土手まで食草採りに来ることが続く。近所の人達にはこの幼虫は野菜は食べないからご安心を! と説明し納得していただいたそうだ。友人宅を訪れると庭に何十頭ものジャコウアゲハが飛び交いそれはそれは痛快な眺めだ。寄生蜂や寄生蝿から守るための飼育箱にはいつも蛹があふれている。増え過ぎると土手に戻しに来る。

 近所の人達は飛んでくる蝶を見て、あれは先生の家の蝶だ。(友人は学校の先生をしている)・・と言って大事にしてくれる。前橋と足利にはそんな蝶屋敷があるのです。

                                      2000年 11月29日 記

 
    
ジャコウアゲハ 





守備範囲

私がいまこうして、パソコンを使っていることが不思議でならない。電気とはやたらに触ると感電する危ないもの、電気製品は完全に理解していないと自分で修理したり分解したりすると必ず壊れ元に戻らなくなるもの。そう決めていた。使用法をマニュアルどおりに順に読んで理解するなんて大の苦手だ。

正解が一つしかない世界は昔から不得意だった。だから数学は大嫌い。できないというより頭が最初からあきらめていて働こうともしない。ところが、動物的「感」を働かせ蝶の来そうなところを探すとか、キノコを探すとか、なんとなくそっちのほうがいいみたい・・・なぁーんて世界は独断場?だ。多少違っても許される自分なりの『味付け』が可能な世界にばかり生きてきた。絵を描いたり教えたり・・・。

カメラを使っていろいろ撮影していると、カメラ好きと間違われ、機種の話しや機能の話しをする人がいる。カメラはべつに好きでも嫌いでもなく蝶や花や鳥や山などが好きだから、それらを手元でも眺めたいがために仕方なく使っている。だから他人のカメラはわからないし、新機種が出ても出たのも知らない。今のカメラで撮れるまで撮るつもりだ。故障して再起不能となれば、ぶつぶつ言いながら新しいカメラの使い方を仕方なくおぼえる。まあ、そんなところだ。

ホームページを作って今楽しんでいる。いままでいろいろ撮ってきた写真がこのように並ぶと気分のいいものだ。まして、書きたい事もこうして書け校正も紙上でやるよりはるかに簡単だ。(おかしな文章かも知れませんが)

死ぬまでには自分の写真に文でも添えて本にでもできたら、いいなあ・・・と前々から思っていた。そんなところに現れたNさん(私とリンクしている星のページを作った方)のおかげで楽しんではいるが、これが大変なのだ。元来、さきほどから述べているように機械オンチなので何度聞いてもピィーンとこない。すぐ忘れる。何度も間違う。それに比べ、Nさんの機械に対する知識と操作能力には、ただただ驚くのみ。質問難問に対し答えが必ず返ってくる。良い人にめぐり逢えたものだ。そうでなかったらとうの昔に癇癪を起こしてやめていただろう。

日本最古の学校「足利学校」は有名?だから説明は省くが、昔生徒がわからない字を紙に書いて庭の松の木に結んでおくと翌朝答えが木の枝に結んであったそうだ。この松を『かな降り松』と呼んでいる。Nさんはまるで『かな降り松』のようなお方だ。おかげさまで機械オンチが機械を使って何とか楽しむまでになったが、一つ覚えると一つ忘れるので、まだまだ松の木は必要ですNさん・・・。





北アルプス

 子供の頃、蝶の採集はどこへ行くにも隣に住む従兄が連れていってくれた。一緒に歩いて登った山は浅間山、八ケ岳、庚申山など。赤城山、榛名山、浅間山麓などは、車が着いた所での楽な採集だった。中学校に入ってから尾瀬、谷川岳、妙義山、上高地などへ大人に混じって行きはじめた。やがて蝶から山にウエイトが移り新しく高山植物が加わった。当時、足利市には山岳会がいくつもあり登山はこの頃もブームだった。子供の私は山岳会に所属する知り合いの方にお願いして一緒に連れて行ってもらった。上高地は登山するつもりで行ったのだが、小梨平でのキヤンプが目的らしくだれも登らずガッカリした。今なら目前に見えてはいても、たやすく登れる山でないことは充分理解できるのだが。それでも穂高連峰や焼岳のスケールの大きさには圧倒された。バスハイクが当時若い男女の交流の場であったようだ。これが私の北アルプス第一歩だった。

現在の上高地までの快適な道とは異なり石ころだらけの狭い道で、稲核、水殿、奈川渡などのダムはまだできておらず、今はトンネルの名前にのみ残る「親子滝」が道路の傍らに流れおちていた。当時松本電鉄のボンネット型のバスは、ウインカーが点滅式ではなく、車の左右に通常しまわれているオレンジ色のものが、道路を曲がる時カシャ・・と出てくる、なんとなくのどかなものだった。これを文章で説明するのは難しい。難所だった釜トンネルの中で、バスの底がでこぼこの岩にあたったらしく、しずくの滴り落ちる暗いトンネルの中で後続のバスに乗り換えた記憶がある。夜行バスではるばるやってきて、トンネルを抜けたあとの開放的な風景が展開される前のアクシデントは、私にとってあこがれの北アルプスとの出逢いにふさわしく、しゃれた演出となった。トンネルをぬけるとそこはまさに北アルプスだった。

高校では中学の時から決めていた山岳部に入部。一年生の夏休み、学校には内緒で友人と2人だけで白馬縦走を試みた。これが北アルプス登山の第一歩となった。大きなキスリングに借りたビニール製のテント、支柱は塩ビのパイプ。それらを詰めていざ出発。両毛線、信越線、篠ノ井線、大糸線と乗り継ぐ。はじめて自分で計画した幕営登山に興奮してか、夜行の電車の中では眠る事が出来なかった。それどころか、車外の景色(夜なのであまり見えない)や、駅の名前を一つずつ確認しては心が踊った。信濃大町の駅で朝を迎えた。好天を期待して外を見れば、雲に見え隠れする山々が驚くほど高く聳えている。しかし、無情にも雨がおちている。駅前のみ観光地らしい信濃四ッ谷駅(今の白馬駅)から細野に向かい八方尾根から入山。登るにつれ風雨は増し、八方池からの白馬三山の眺望や、ガイドブックでおぼえた「雪とお花畑の白馬」の夢も、荷物の重みと横殴りの風が消してしまう。それでも自分の足で憧れの北アルプスに立っている充実感は感じていた。やっとの思いで辿り着いた唐松小屋直下にある雪渓わきのキヤンプサイトは、寒々としていてずぶぬれの体には辛かった。五竜の大きな山容が重く迫る。

翌日はまずまずの天気だ。だが雲は多く風も強かった。不帰のキレット、天狗の大くだり、と難所も無事通過し、昼食にしょうとしたら、持参のぶどうパンにカビが生えている。ろくな食料も持たずの縦走に今思えば背筋が寒くなるが、なにしろ高一のすねかじりだから粗末は仕方がない。パンは食べずみかんの缶詰めのみの昼食に杓子岳から先、腹が減って足が前に出ず、オマケに目指す白馬は霧の中で何も見えない。やがて霧の中から歌声が聞こえてきた。あの世からのお迎えか?・・・耳をすまして良く聞くと『ここは白馬、雪渓一里・・・』と聞こえる。遭難防止のため霧がでたら流すらしい。歌は聞こえども姿は見えず。地を這うようにしてやっとの事で、白馬頂上宿舎横のキヤンプサイトに到着した。お湯を沸かして飲んだスキムミルクの味は一生わすれない。

今宵の宿もでき上がり、腹の方も落ち着いたので山小屋を覗きに入って驚いた。テレビがある。高校野球をやっていた。自分の足だけを頼りにここまでたどり着いた私にとって、場違いなものを見たようで、なんだかガッカリした。これまでに私が泊まった山小屋は足尾の庚申山荘だけで、そこはランプが灯りテレビなんてもちろんなかった。ただ小屋の主人の話を聞くのが楽しみだった。話しがそれるが、山小屋の移り変わりはそれ以後すさまじいものがある。カレーかハンバーグ、それに山菜天ぷらの定番がしばらく続いたが、北穂小屋ではバロック音楽が流れる中、ステーキがでてきたのには驚いた。その後横尾山荘でメロンが出て再び驚いた。三俣山荘では温水シャワーが出現して物議をかもした。今は登山から遠ざかっているので、その後のご馳走がどうなったか知らない。

さて、白馬最後の夜は、アルプス縦走初心者に対し最高の教訓を授けた。その夜は台風の接近のため強風が吹き荒れ、ビニール製のテントはバサバサ音を立てるうちに裂けてきた。おまけに、塩ビの支柱はやわらかいのか自在にしなり本来三角形のテントは丸くなったり、平らになったりして中の二人はもう大変! 手と足で支柱をささえながら夜の明けるのを待った。それでも翌日は、大雪渓を転げるように走り抜け?高記録を樹立した・・・? 今となっては余裕で語れるが、ちょっとお粗末な北アルプス登山の第一歩であった。その後の登山は、もちろん慎重に準備行動しているのは言うまでもない。あれから三十年以上の歳月が流れた。

      
    
  大正池・穂高連峰       八方尾根から不帰岳・天狗の大下りを望む




野宿

 若い頃は、山小屋でなくテントで一夜を明かす事が多かった。昔のテントは布製で雨にぬれたり夜露にあたると重くなり、それを背負って歩くのはとても辛かった。でもテントでの一夜は、風の音や雨の音が直接感じられ自然の中にいる実感がひしひしと伝わってきた。明日の快晴を期待しながら寝ようとするが聞こえてくる風の音に不安がつのる。寝付かれず首を出し外を見れば、木々はゆれ囲まれた山々のシルエットが黒く大きく迫る。大きな自然の中で孤独感につつまれ一夜を明かしたあの頃のことが妙に懐かしい。その後、車ではあるが林道の道端で野宿をしたことが何度かあった。夕暮れ前に自分のために料理をし、日が沈むとあとは眠ることだけだ。テレビも、新聞もない。つかの間だけど文明から遠ざかる。

今、断熱材で外界と遮断され暖房や冷房のきいた家の中で眠る時、外の様子などあまり気にならない。いつからか人間は自然と自分との間に壁をつくり、風の強さや雨の冷たさや、冬の寒さも夏の暑さもあまり感じなくなった。車や電車にのれば雨も風も関係なく移動できる。スイッチひとつで家の中も車の中も快適だ。自然とのかかわりが少なくなれば、その大切さも、また恐さにも気がつかなくなる。仕事に追われ自然の中に身を置く余裕は無いかもしれない。でも外に出れば雲は流れ風も吹いている。夜は月や星が毎日ではないが見ることも出きる。太古から続く一日の移り変わりや季節の流れは何も変わっていない。ときどき野山に出て人間も自然の中の一員である事を実感してもらいたい。人間だけのために時は流れているわけではないことも・・・。

 
         
夕焼け



百聞は一見

蝶が食べる草や木の葉を、食草や食樹と言う。蝶を飼うにあたって、それらがどこに生えているかわからないと飼えないので図鑑で調べることになる。すると似たような木や草がけっこう多いことに気づく。図鑑では、(人間みたいに木に年齢があるとしたら)ある本には十歳の若々しい姿、別の本には五十歳の中年の木?であったりして、同じ木でも撮り方でイメージがだいぶ変わってしまう。図鑑と同じ木が同じポーズ?ではえてはいない。知っている人に案内してもらって「これですよ」と教えてもらえれば簡単なのだが、蝶が食べる木や草を、わざわざ遠くまで案内してくれる人はそうはいない。自分で探すより他にない。

キハダとカラスザンショではだいぶ遠まわりしてしまった。キハダだと思い大事に掘ってきた木がどうも違うようだ。木の皮を剥いでも肌が黄色でない。噛んでみても苦くない。だんだん自信がなくなってくる。結局だいぶたってまちがいと気づく。カラスザンショにいたっては似た木が多くて探すのにたいへん苦労した。どちらも実を言うと蝶が教えてくれた。

八ケ岳の裾野の川上村から信州峠を越え、山梨の方まではるばる採集に出かけた時、キハダらしい木にミヤマカラスアゲハの雌が産卵に訪れていてしきりに葉にまとわりついていた。「これだ!」やっと謎が解けた。一度わかればあとは簡単、あちこちでいくらでも探せた。

カラスザンショもそうだった。林道をのろのろ走り、図鑑で見て記憶した木と似たような木を探していたら、ミヤマカラスアゲハやオナガアゲハの終令幼虫が蛹になる場所を探しに幹をおりているところを偶然にも発見。この木もそれ以後はあちこちで見つかるようになった。

木も難しいが「きのこ」がまた難しい。似たようなきのこがたくさんある。おなじ名前のきのこでさえ大きいものもあれば小さいものもある。色だってけっこう微妙に違う。まして、笠があまり開いてない姿しか図鑑に載ってないと、開いたきのこは別のきのこに見えたりする。間違って食べれば死んでしまうことだってあるから、いいかげんに名づけ親にはなれない。
 
 時々、このきのこ食べられますか?と聞かれることがあるが、自信ないときはいいかげんな返事はしないようにしている。今日の朝も近所のおじさんが、私が物好きでいろいろ知っているだろうとあてこんで、うまそうでしっかりしたきのこを持ってきた。確かにこれが食べられたら収穫量も多いということだし家族中でたらふく食べられる。しかし、私の答えは「不明」・・・五冊の図鑑で調べはしたものの、似た種類はあるが断言できなかった。間違いなくこれだ!と言えるような特徴のあるきのこ以外は食べない方が無難である。

近頃はアウトドアブームで、きのこの図鑑や木や野草や鳥の図鑑もきれいなものがたくさん出ている。でも、一瞬の姿しかとらえることが出来ない写真には限界がある。環境や季節、他にもいろいろな角度から判断し、また知っている人にその場で教えて貰うなりしないと正確な断定は難しい。それから、名札がついている場所・・公園・植物園など(上高地の梓川沿いの木には名札がついていて、私はそれでずいぶんおぼえた)で気になる木はおぼえると良い。

虫の名前でも草の名前でも一つおぼえれば、一つ心が豊かになる。そんな気がする。 

  
     
キハダの新芽



アルプ

 今はもう廃刊になってしまったが「アルプ」という、とても格調高い本があった。昔(そんな昔ではない)山登りをする多くの人に愛された本だったと思う。
尾崎喜八、串田孫一、辻まこと、山口耀久、深田久弥、田淵行雄、草野心平、曾宮一念、矢内原伊作、三宅修・・・その他、詩人、写真家、画家、哲学者・・・etc、それはそれは豪華な人達が並んでいた。

自然に関することがあらゆる角度から書かれていた。私が東京で暮らしていた20代の頃、古本屋でバックナンバーを探し集めていた。2000年3月号「山と渓谷」に特別企画「アルプとその時代」が取り上げられていた。私にとって遥かな山々を、より豊かに飾ってくれた「アルプ」の中の文や絵や写真の数々、自然との対し方や人間との交流を丁寧に教えていただいた。音楽、絵画、文学、写真、それぞれが自然とやさしく調和していた。

霧が峰にヒュッテを持つ手塚宗求氏が、特別企画「アルプとその時代」のなかに、次のように語っている。「原稿依頼の封書を手にすると、気持ちが引き締まる思いがした。衿を正す、といったらよいか。「アルプ」にはしっかりとした文章を書かねばならないと思った。」・・・と。

それほどこの本には、誰もが真剣に取り組んでいたようだ。だから、採算度外視で内容のあるすばらしい「アルプ」が存在していた。豪華な執筆陣とそれを受け入れる読者がいた。しかし今、そのどちらもいなくなった。読者に迎合せずできるだけ美しく惜しまれながら終わりにすることが大切だ・・・そう串田孫一氏が語っている。そして『アルプ』は終わった。

若い人は山に登らずとも、他に遊びがたくさんある。山の歌をともに歌い人生を語る、重い荷を背負って苦労して登るなんてはやらない。私のいた山岳部なんてとうの昔に廃部だ。でも中高年が元気だ。

近頃は百名山ばやりで似た本がたくさんでている。中高年の方々は時間的にも経済的にもゆとりができ、車の大衆化や林道が奥まで伸びたおかげで、山にも非常に入りやすくなった。今のブームに亡くなった深田久弥氏も驚いているに違いない。

山で逢った人が私に自慢げに語りかけた。百名山をほとんど登ったと・・・。

百名山踏破という目的を持って登るのもいいが、なんだかせわしい気がする。

まるで山のコレクションのようだ。百名山のうち、まだ登っていない山を探し難度の差はともかくあといくつ登らねば100に足らない・・! 無理をしてでもあの山に登りたい。

人それぞれですから、そういう登り方を否定するものではありません。ただ、深田久弥氏はたくさん登った中からあえて100だけ選んだ。最初から、選ばれた100を目指すのはブランド志向のようで身近な良い山を見逃しているかもしれない。自分の目と足であなたの10名山でも探した方が私は納得する。

こう書くと今登っている人達が何も考えず山頂だけを目指して登っているみたいだが、そうではないと思う。今また「アルプ」が特集として登場したように、今の登山者も、今より不便ではあったがもっとゆっくりと時代が進んでいて心もより豊かに思えた、あの頃の「アルプの時代」の登山を再び見直そうとしているに相違ない。

私にとって山は遥かなほうがいい。

(注)・アルプの中でもとりわけ人気の高いのは、「特集 辻まこと 218」 「特集 尾崎喜八 196」
「深田久弥遺稿・増大号 159」と書かれている。昔、古本屋で、いずれも手に入れて持っている。

 
   
槍ケ岳遠望



天の川

 私のホームページは今のところ唯一「星の写真展」にリンクしている。私にホームページの作り方を懇切丁寧に教えて下さった恩人?のホームページだから、宣伝しなければいけない。でも、私にとっても星や宇宙の存在は魅力的だ。

 私が小学生の頃、夕方ともなれば三方を山に囲まれた家の周辺は、所々に外灯があってもかなり暗かった。そろばん塾の帰り、自転車から空を見上げると北斗七星やカシオペアなどが北の空に大きく輝き、天の川だってよく見えた。

もう二十年はたつだろうか・・私が登山に凝っていた頃、穂高の涸沢にテントを張った夜、テントから首を出して見たその夜の星空はすばらしかった。今までに見たことも無いおびただしい数の星たちがまたたき、天の川は白いベールをかぶったように流れ、雄大な山々に囲まれた穂高涸沢は星に一番近いところのように思えた。

その後、蝶を追いかけ、尾瀬鳩待峠分岐先の林道に真夜中に着いた時の事。車のライトを消し明日の撮影のためひと眠りしょうとしたが、辺りが妙に明るい。良く見れば星の光で明るいことがわかった。穂高の涸沢の時以上に澄んだ初秋の夜空には、正面に白鳥座やカシオペア座、その横にペルセウス座が天の川の中に見える。しかし、あまりにも星の数が多くて星と星を線でむすぶのが難しいほどだ。振り返れば後ろにおおいぬ座のシリウスがまるで月のように大きく明るい。こんな星空は本当に久しぶり、いやはじめてかもしれない。興奮した私は寝ずに2時間以上も眺めていた。

私は我が子にほんとうの天の川を見せたいと思った。これらの星たちを見ていると今までと何かが変わるような気がする。目の前に広がる広大な宇宙に存在する幾多の星の一つ・・地球上に今生きて自分がいることの不思議さに気がつくだろう。

地球上に自分とともに存在する人間やすべての生き物が、何億分の一だか知らないが、わずかな偶然が重なって生きていられることに気づけば、もっと命の尊さも、人生の貴重さもわかってもらえると思うのだが・・・。

私はそんな話を 「星の写真展」の、天の川の写真を見て我が子に話した。そして、一緒に見に行こうということになっている。

   
    天
の川 「星の写真展」西田氏提供



こわい話?

 私は、蝶の飼育をしている。方法はいろいろあるが、自然の中から幼虫を探してくると最後にガッカリする事が多い。食草が近くに生えていない場合など、わざわざ新鮮な葉を補充するために遠方まで出かけ葉が枯れないように工夫したり食草そのものを採集し持ち帰る。

そんな思いをして幼虫の成長を見守っていると、やがて何回かの脱皮を繰り返しやがて蛹となる。そして、羽化の日を楽しみに待っていると・・・突然蛹の中から蜂の成虫が穴を開け出て来たり、丸々太った蝿の幼虫(ウジ)がぽろぽろとこぼれるように出てくる。そのウジ虫が辺りを歩き回っているうちに、これも蛹になりやがて、蝿となる。

不思議なのは、蝶の幼虫が蛹になるまでの間、 蜂や蝿の幼虫が蝶の幼虫本体に決定的なダメージを与えず生かしながら内臓をこっそりいただいていることだ。蝶の幼虫はちゃんと蛹になるまで成長機能を失わず生きている。まるまる太らせご馳走の量が最大になった頃、一機にたいらげ、蛹の中から蜂やウジが出てくる。・・・こわい話だ。

しかし、良く考えてみれば小鳥たちは葉上の幼虫を食べ空を飛び、小鳥たちは鷲や鷹に食べられる。人間だってイナゴの佃煮、蜂の子まで食べる。食物連鎖の中の出来事で、これが自然なのかもしれない。苦労して育てた私はガッカリだ。でも仕方ない。これらの事は、長い年月の中で何かによって作られた複雑な法則だから・・・・。

     
  
寄生蝿・ブランコヤドリバエ  ジャコウアゲハの蛹から出てきたばかりの
                  ブランコヤドリバエの幼虫(ウジ)



アサギマダラ

遠くへ行く手段のない子供の頃には、秋が来るのが楽しみだった。今まで、高い山に棲んでいた、クジャクチョウやアサギマダラ・シータテハ・キベリタテハといった蝶たちが、ときどき家の周りや近くの山で見られる事があるからだ。

今年は10月の中旬頃、アサギマダラが我が家を訪れた。その麗しく優雅な飛び方は見ているだけでうっとりしてしまう。ひらひら、ふわふわ・・・そして、フジバカマの花に止まった。写真を撮ろうと慌ててカメラを取りに家の中に飛びこんだ。まだ止まっている。そっと近づき構図がどうだのバックがどうだの考えているうちに、逃げた。

この蝶を中学生の頃、八ケ岳の稲子湯からしらびそ小屋を経て本沢温泉に向かう途中で連れて行ってもらった従兄が採集した。私はそれがほしくてほしくて仕方なかった。

今では、車で遠い所も一人で行ける。その後あちこちの林道でヒヨドリバナにとまった数多くのアサギマダラに出合った。変わらぬ優雅さにいつも心が踊った。

逃げたアサギマダラは裏山に消えた。ふわふわと・・・。しばらくしてまた舞い戻ったが今度は花に止まらないで庭の中をあちこち寄り道しながら飛び去った。何だか、初恋の人を見送るような、別れがたい思いだった。そんな名場面は、私の人生には一度もなかった

 
    
 アサギマダラ



我が家の庭

私の家はすぐ裏が山なので蝶も野鳥もたくさんやってくる。しばらく前までは、少しでも遠くへ出かけたほうが良い出逢いがあるような気がして勇んで出かける事が多かった。

そのうち出来あがった写真を見ると、庭で撮ったものに良いものが多い事に気づいた。それには理由がある。せっせと蝶の食草や訪れそうな花を植えたからだ。こんな良い環境は自然の中にはめったにない。野鳥にも餌台と水鉢を毎年用意しておくと何種類もやってくる。

 蝶は好んで訪れる花がだいたい決まっている。アザミやツツジにはアゲハの種類が多いし、ハルジオン、オカトラノオ、ヒャクニチソウ、フジにもいろいろやってくる。食草を植えておけば雌が産卵のためにやってくる。飼育がしたい人におすすめはカラスザンショ・・・これ一本でアゲハのほとんどがまかなえる。モンキアゲハ、オナガアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ、アゲハチョウそしてミヤマカラスアゲハなどが訪れる。

 昨年秋植えた我が家の庭のキハダに今年はミヤマカラスアゲハが産卵した。成虫はすこし山の奥に行かないと見られないのに、町なかまで一キロ足らずの我が家まで飛んでくるなんてミヤマカラスアゲハのお母さんもたいへんだ。

 鳥は餌によってやはり種類が変わる。ひまわりの種にはシジュウガラやヤマガラ、シメ、カワラヒワなど、エゴマや粟、稗を置くとスズメやキジバト、シロハラ、アオジ、などいろいろやって来る。みかんなど果物をおくとメジロやヒヨドリが来る。こうして我が家の庭は一年中、蝶や鳥がやってきてそれはそれは賑やかだ。

 でもやはり、庭とは違った本来の自然の中で生活している彼ら見たさに、いつもあちこち出かけシャッターチャンスを探している。

 
 
 オナガアゲハ・ツツジで吸蜜中
   後ろから雄がやってきた。 

 

    

矛盾

 私は今までいろいろな人に良くこんな話をした。「科学や技術の進歩はもうこの辺でとまってほしい。昭和40年前後くらいの状態が一番良かった」・・・と。

 あの頃は簡単に欲しいものが手に入らなかった。ガイドブックや高い本など立ち読みして憧れの山々を心でたどった。人間は欲望にきりがなく楽をしたがる。新しいものがでればたいがいの人は欲しくなる。無ければないで済むし、頭や手足を使って工夫する。

欲しいものがすぐ手に入ると、あまり考えずにとりあえず買ってしまう。そしてすぐ飽きたり使いこなせずどこかにしまってあるか捨ててしまうのが落ちである。

手に入るまでに憧れ、調べ、心をときめかす時間が大切だ。金がなくてもローンで、麓の道を歩かなくても登山口へ。楽はいけない。

 そんな事を言っていた私がホームページだなんて、半月前には考えてもみなかった。パソコンどころかワープロだって使った事が無く、一週間前にワードというのを使い始めた。(メールのやり取りは四ヶ月ほどやった。)ただ私にはたくさんの写真がありこれをうまく保存する事を前から考えていた。

そこへ友人を介して強力な助っ人が現れた。否応も無く毎日教えのメールは届くし、簡単簡単とあっさり言う。おまけに私が送った画像を継ぎ足し継ぎ足し仮のホームページまで作ってくれた。夜は往診型定時制のパソコン教室(授業料無料?)が始まり宿題がヤマほど出る。元来凝り性でまじめな?私は宿題もきちんとかたづけ質問さえもする。もっと昔、学生時代にこのような態度で先生に接していたら、さぞかし、立派な人間になったでしょうに!

そんなわけで、このホームページはまるで夢の中での出来事のようなモヤモヤとした定着しないつめこみ状態でできあがった。在学日数、一週間ほど。 

                        2000年 10月 22日 記



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